ヨハネは幻の中で、繰り返し天上の光景を見る。1章では「天上におられるキリスト」 (12節以下) の姿を、4章では「天上の礼拝」 (1節以下) の様子を、そして、今日の12章では「天に大きなしるしが現われた」(1)ことを。これは何を意味するか?
既に述べたように、初代のキリスト教徒たちは理不尽な迫害や耐え難い苦しみを経験し、その中でしばしば前途に希望を失った。これが地上の現実である。ヨハネはこの現実に日々直面していた。現代でも、これは本質的に同じである。
前の戦争のとき、中国や韓国の人々・沖縄の人々・広島や長崎の人々は理不尽な苦難を身に沁みて経験した。従軍慰安婦にさせられた女性たちや、強制収容所で殺された無数のユダヤ人もそうだ。現代でも、多くの人がテロで命を奪われているし、パレスチナでは、あの非条理な苦しみを嘗めたユダヤ人の子孫たちによって一般市民が日々殺されている。これらの人たちは、「何故こんなことがあるのか? 何故自分たちはこのような理不尽な苦しみを受けなければならないのか?」と問いながら死んで行ったであろう。だが、この問いには答えがない。
しかし、地上の現実の中で自らも苦しんでいたヨハネには、「天に大きなしるしが現われた」(1)。既に述べたように、我々が体験している地上の現実は苛酷なものだ。「そのような現実に意味があるのか?」、「世界の歴史はこれからどうなるのか?」と我々は問うが、地上の人間には誰にも分からない。
だが、「天にしるしが現われた」。それは、地上の現実だけが唯一の現実なのではないことを示す「しるし」であり、より高い神の現実があるという「しるし」である。
我々の過去も現在も将来も、神はご存知である! ヨハネはこのことに心を向けている。イエスが、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ福音書16,33)と言われたのも同じ意味である。
さて、「天に現われた大きなしるし」は、「一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(1)というものであった。これは一体何を意味しているのか?
「太陽と月と十二の星をまとう」というのは、古代の天体崇拝の神話においては、身分の極めて高い「天の女神」につきものの表現であった。その後に「女は身ごもっていた」(2)と続くから、この女性はマリアではないかと思うかもしれないが、多くの注解者は、これはキリスト教会を意味する、と言っている。
さて、天には「もう一つのしるしが現われた。見よ、火のように赤い大きな竜である」(3)。この竜は、後に「悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者」(9)と説明される。要するに神話的な悪の力の象徴であって、「七つの頭と十本の角」(3)を持つ。見るからに恐ろしい怪物で、その女性が子供を産んだら直ぐ「その子を食べてしまおう」(4)という邪悪な意志を持ち、悪知恵も働き、「天の星を掃き寄せて、地上に投げつける」(4)ほどの強大な力で世界の秩序を脅かす。ダニエル書7章の「獣」の描写と良く似ている。『千と千尋の神隠し』に描かれた竜の迫力も参考になろう。
このような悪の力が存在するという思想は、古代では一般的であった。カナン神話では「レビアタン」と呼ばれ、これは聖書にも出てくる(イザヤ書27,1)。ギリシャ神話では、巨大な竜「ピュートーン」として登場する。あらすじは ―― 女神レートーはゼウスによって身ごもる。竜は、「やがて生まれる子がお前を殺しにやって来る」というお告げを受けてパニックを起こし、それならば先に殺そうというわけで彼女を追いかける。しかし、ゼウスの命令を受けた北風ボレアースは彼女を海神ポセイドーンに托し、ポセイドーンは彼女をある小島に移して島ごと海に沈めてしまったので、見つからずにすむ。後に再び水面に現われた島の上で、彼女は出産する。アポローンとアルテミスだ。このアポローンが、四日後に竜を殺す―― というものだ。
むろん、ヨハネはここで古代の神話をそのまま使っているわけではない。それらを素材として用い、それにキリスト教的な内容を盛り込んだのである。
「女は男の子を産んだ」(5)。「男の子」とは、無論、キリストを指す。「鉄の杖ですべての国民を治める」とあるが、これは詩第2編の引用だ(今日の礼拝ではこれを意識してこの詩編を交読した)。詩編の「お前を生んだ」(7)という言葉は、「お前をメシアの位につける」というのと同じ意味である。すると、「この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた」(5)とか、「子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた」という言い方でヨハネが言いたかったことは、「地上ではどれほど苦難があろうとも、天の玉座の傍に上げられたメシア(キリスト)が世界を愛によって支配することになっていることに変わりはない」ということに他ならない。
「女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった」(6)。前述したように、「女」とは教会のことである。地上では教会への迫害がなおもしばらく続く。千二百六十日! これは、11章にも出てきたが、3年半、7年の半分である。つまり、苦しみは永遠に続くことはないが、それでもかなりの期間は忍耐しなければならない。しかし、イスラエルの民が40年に及ぶ荒れ野の旅の中でも「養われた」ように、預言者エリヤが荒れ野のエニシダの木の下で絶望していたとき、不思議な仕方で「養われた」ように(列王記上19,3以下)、教会は神の用意された場所で生き続けることができる。慰め深い言葉である! そして、教会史はこのことを証明しているのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
Who We AreWhat We EelieveWhat We Do
2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.