今日は久しぶりに「十戒」を取り上げ、第八戒について話したい。「盗んではならない」(出エジプト記20,15、申命記5,19)という単純な戒めである。旧約聖書の時代は今と生活形態が違うし、「盗み」に関連した記述も余り多くない。せいぜい、「牛、ろば、羊、あるいは衣服」(出エジプト記22,8)、あるいは「銀」(同22,6)、「自分の家畜を放って、他人の畑で草を食べさせる」(同22,4)ぐらいだ。ブルド-ザーでコンビニの現金自動支払機を丸ごと盗む犯罪が続発するような現代から見ると、まことにのどかなものだ。我々にとって「盗み」の具体的なイメージを思い描くことは難しい。
ところで、現代人である我々にとって、第八戒はどのような意味を持つか?ある研究者は、旧約聖書では「盗む」という言葉はもともと窃盗一般ではなく、誘拐に関連して使われたと言う。いわば「拉致」だ。これなら良く分かる。これに対する罰則は、まことに厳しかった。「同胞であるイスラエルの人々の一人を誘拐して、これを奴隷のように扱うか、人に売るのを見つけたならば、誘拐したその者を殺し、あなたの中から悪を取り除かねばならない」(申命記24,7)。
新約の時代になると、第八戒はかなり広げて解釈されるようになる。パウロは、つき合ってはならない人間の例として、「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者」と並べて「人の物を奪う者」を挙げる(第一コリント5,11)。そんな連中と交際してはいけない!
16世紀の宗教改革者カルヴァンは、第八戒が禁じているのは「裁判所で罰せられるような窃盗」だけではなく、「あらゆる不正な取り引きや、隣人の財物を暴力、ごまかしその他神の認めぬようなことでわがものとするような非道理な方法」(『ジュネーブ教会信仰問答』問205)であると拡大解釈した。そして、要するに問題は「それぞれの所有を尊重し維持するという義務を行うことだ」(問207)と言う。
17世紀に書かれた『ハイデルベク信仰問答』も基本的には同じだが、「不正な重り、物差し、升」といった基準に言及したり、「あらゆる貪欲」や「不必要な浪費」にまで枠を広げたりする(問110)。総じて言えば、経済活動が拡大するにつれて個人の所有が増え、人々の関心も次第に自分たちの財産を「盗難から防ぐ」ことに向けられたということなのであろう。こうして、「盗むな」という禁令は社会の「常識」になった。
ところで、イエスご自身はどうだったか?
イエスの譬えの中には、「盗人」(マタイ6,19)や、「追いはぎ」(ルカ10,30)がよく登場する。もちろん、イエスはこれらの行為を是認しているわけではない。しかし、これらの泥棒たちは、イエスのごく身近に生きているような存在として、ひょいと彼の譬え話の中に顔を出す。
「民衆の神学」の開拓者であった韓国の故アン・ビョンム教授は、イエスが「罪人や徴税人」(マルコ2,16)と一緒に生きたことに注目した。この場合、「罪人」とは、貧しさのために律法に定められたこと ―― たとえば安息日に関する規定や神殿への捧げ物など ―― を守ることができない人々、また、貧苦のゆえに「つい人の物に手を伸ばして」しまったり、「売春行為」に走った人々である、と言う。世間は彼らに「罪人」というレッテルを貼る。極貧の苦しみに加えて、周囲の人々の刺すような視線が彼らを一層痛めつける。安先生によると、これが「民衆」なのである。そして、イエスはこの民衆と一緒に食事をした!つまり、共に生きたのであった。居丈高に彼らを断罪したりせず、むしろ「罪人を招くために」(同2,17) 先ず彼らの友になった。
池波正太郎の『鬼平犯科帳』の中には多種多様な泥棒が出て来る。凶悪な盗賊もいるが、「盗みのモラルを忠実に守る真の盗賊」(!)もいる。つまり、盗まれて難儀するものへは手を出さない・人を殺傷しない・女性に乱暴を働かないという三箇条だ。こうした「真の泥棒」や、悔い改めて配下の密偵になった「元泥棒たち」を見る「鬼平」の目には、暖かみが感じられる。これが、人気の理由であろう。
むろん、「鬼平」はイエスとは違う。似ている点もないではないが、「鬼平」は畢竟、幕府という絶対的権力の手先だ。この点、イエスは権力の後ろ盾を全く持たず、孤立無援の人間として「罪人の友」となり、そのことによって、「私的所有」を絶対的価値と見なす世間一般の常識にショックを与え、再考を促したのであった。
ボンヘッファーは、前にもふれた「罪責告白」の中でこう告白している。「教会は、貧しい者たちが収奪され搾取され、強い者たちが富みかつ腐敗して行くことに対して、沈黙し、傍観していた」。むろん、この背景にはナチス支配下のドイツで行われていた不正がある。ヒトラーは70年前の1月30日に絶対的な権力を握って以来、何でも出来るようになった。批判的な勢力はことごとく潰し、ユダヤ人は強制収容所送りにして、その財産は全部ナチスが没収した。壮大なスケールの第八戒違反である。
しかし、同じようなことは現代でも繰り返されている。ペルーのカトリック神父グスタヴォ・グテイエレスは、布教のためにリマ郊外の貧しい人々が住む一角に入ったとき、余りに悲惨な状況に言葉を失ったという。一握りの富める人々が国中の富を独占した結果として、大多数の貧しい人々は人間以下の生活を強いられている! これらの人々を「クリスチャンにする」前に、先ず「人間に相応しい」生活を回復しなければならない。これが「解放の神学」の発端だった。不当に富む人々の「私的所有」の大部分は、実は「大掛かりな収奪」の結果ではないのか? いわゆる「グロバリゼーション」の中でも、同じことが起こる。よくよく注意しなければならない。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
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Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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