「私はこの地で宿り人です」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

キリスト教の信仰を持つとは、ナザレのイエスに行動の指針を求めるだけでなく、人生のすべてをかけてイエスに従うことを意味します。私たちがこのような信仰を持つに至るについては、その信仰を私たちは何世紀にも亘る信仰の証人たちに負っています。ディートリヒ・ボンヘッファーは、そのような証人の一人になりました。彼の証言は、私たち自らの生の歩み、信仰の歩みに、一つの刺激をあたえるものだと思います。

聖書のある特別な言葉として、私は詩編119編の一節を選びました。他でもないこの詩編が、ボンヘッファーにとってとりわけ重要なものであったからです。ここでは、私たちは地上では「宿り人」に過ぎないと言われています。私たちは地上では「よそ者」である、と翻訳することも可能です。ですから同じ言葉に二つの意味が、つまり客人として受け容れられるという意味と、よそ者として生きるという意味が同時に備わっているわけです。

この二つの意味は、この詩編の祈りとともに、私たちの人生にもそのまま当てはまります。この点でも、ボンヘッファーは私たちにとって先輩です。彼は、その人生の中で、まさにこの詩編119編にさまざまなかたちで立ち戻りました。176節あるこの詩編は、「いつになっても終わらず、ほとんど無限の解釈を許すほどの単純さに極まる」、そのようにボンヘッファーはこの詩編を経験しました(『共なる生活』DBW 5, 42)。彼は、この詩編が、「その長大さと単調さのゆえに」(119頁)、私たちにとって大変難しいものであることを知っていました。しかしこの詩編が難しいのは、それがただ長いからというだけではありません。神の「言葉」と「戒め」に繰り返し言及されていることも、難しさの理由です。この反復から私たちは、許されているのはただ唯々諾々と服従することだけであり、自由で成熟した者として自ら責任をもって生きることは許されていないかのごとき印象を受けます。さらにこの詩編は、常に主の「道」に留まること、少なくともその「小道」を歩むことが大切であると言います。そしてこのことは、他でもない厳格な服従を通してのみ可能であるという印象を、私たちは受けます。

山上の説教を読むとき、私たちは同じことを経験します。山上の説教は私たちに、下着をとろうとする者には上着をも取らせよ、右の頬を打つ者には左の頬を向けよ、と命じます。ここにも律法、規範、戒めがある、という印象があります。そして、こんな戒めに従って生きることは不可能だ、と感じるのです。誰が、打たれるに任せたりするでしょうか。

もっともボンヘッファーが問題にしたのは、個々の振舞の規則ではなく、むしろ人生の全体でした。ルカ福音書からの聖句を読めば、このことは明らかです。ボンヘッファーは、とりわけ彼の著作『信従』において、この点に特に注目しました。

「信じて従うとは、具体的な一連の行動を行なうことを意味する。召しに応えて踏み出された最初の一歩が、イエスに従う者を、この人の従来の歩みから早くも区別する。こうして信従への召しが、直ちに新しい状況を作り出すのである。」(DBW 4, 50)

ボンヘッファーは、イエス・キリストによる召命を、「理論」と理解しているのではありません。キリストの御言葉とは、「実存が新しく創造されること」(同所)を意味します。イエスに従う者の生活は、一見したところ、何も以前とは変わりません。信従への召しを受けた後も、なお自分の家族のもとで生活し、仕事に精を出すという具合に。このことをボンヘッファーは、アブラハムを例にとって説明します。アブラハムもある「召し」を、すなわち息子イサクを神に捧げるように、という召しを受け取りました。しかしその準備を整えるのは、神ご自身です。父と息子は雄羊を犠牲に捧げ、自分たちは再び山を降りて、彼らの生活に帰ってゆきました。しかし、すべてが以前とは変わりました。「360度の方向転換」とボンヘッファーは表現しています。「アブラハムはイサクを取り戻した。しかし彼のイサクに対する関係は、以前とは異なる」からです(同書93頁)。

この無条件の服従について、ルカ福音書の聖句が明瞭に述べています。イエスに従うようにという召しを受けたら、まず死者を葬るということではいけない。鋤に手をかけたならば、振り返ることすらすべきでない、というのです。それでも、イエスを信じ彼に従う者の運命が不確かなものであることは明らかです。ルカ福音書は、イエスに従おうとする人に対して、狐には穴があり、鳥には巣があるが、人の子には何もない、という言葉を付加しています。ヨハネ福音書1章14節にある、言葉は肉となり、私たちの間に「住まった」という発言は、うっかりすると見過ごしてしまいますが、真剣に受けとめられて然るべきです。「住まった」というギリシア語は、「テントを広げた」と訳す方が正確です。つまり定住というわけではないのです。ましてや宮殿ではありません。神の御言葉がそこに住処を見出したのは、堅固な要塞ではありませんでした。

この言葉は、ボンヘッファーにとって解放を意味します。この点で私はボンヘッファーから、私たちの人間的な考え方をはねつける、あの山上の説教のメッセージを理解するための一つのカギを受け取りたいと思います。ボンヘッファーは1932年、まさに山上の説教を通して、決定的な解放を経験しました。彼はイエスのメッセージを、人を根源的に自由にするメッセージとして経験したのです。このメッセージは、地上の人生が持つすべてのしがらみや限定から、人を解放するからです。私たちが地上に遂の住処を持たないということは、この解放に属しています。私たちが最終決定的な安住の地を建設できる場所は、どこにもありません。しかし逆に言えば、私たちはそのことを苦にする必要がないのです。家や宮殿のことで、くよくよする必要はありません。いわば雨露をしのぎ、砂漠の太陽を遮りもするテントがひとつあれば、それで十分なはずなのです。

このような文脈に、ボンヘッファーが抵抗運動に参加した1939年から40年にかけての冬、「地上の宿り人」という聖句を解釈した、次のような言葉も属しています。

「神の言葉が初めて私を捉えたとき、この言葉が私を、地上のよそ者とした。神の言葉が、約束された土地によそ者として住んだ、信仰の父たちの長い列に(『ヘブル人への手紙』11,9)私を加えた。」 (同書529頁)

これに続いてボンヘッファーは、「父の土地から出て、約束された土地に行くよう命じる召し」を信じたアブラハムについて、その名をあげて言及します。召しとは、つまり、出立を意味します。同じことは、エジプトから脱出するイスラエル民族にも当てはまります。しかし、彼らが神から約束された土地に到着する場合にも、自分たちが「かつてよそ者であったこと、そして今なおそうである」ことを忘れてはならないのです。なぜなら彼らは、「彼らにではなく、むしろ神に属する」土地で、「よそ者かつ宿り人」であり続けるのですから(同所)。

「地上の宿り人」であるとは、そういうことです。この地上で私たち与えられた時間は短いこと、私たちが持っている良きものすべては、ただ「感謝して受け取る」ことができるだけであること、また「不正と暴力」を耐え忍ぶべきであることが、ここから分かります(同書530頁)。続いてボンヘッファーは、私たちはなるほど「宿り人」に過ぎず、宿の「法律」の下にあると言って、さらに次のように続けます。

「私を養う大地は、私の仕事、私の力に対して、ある権利を持っている。私がその上で生きている大地を軽視することは許されない。大地に対して、私は誠実であり感謝を捧げる義務がある。天国のことを考えながら、うすらぼんやりと私の地上の生活を送ることで、この私の運命…、よそ者として生きるようにという神の召命を回避することは許されない。」(同書530頁)

つまりボンヘッファーは、ここで、私たちが「別世界への罰当たりな憧れ」に身を委ねることのないよう警告しているのです。むしろ宿り人として、「この世界が抱えている課題、痛み、喜びに対して無関心になったり、心を閉ざしたり」しないことが大切です(同書530頁)。

しかしこの世界の只中を通る道を歩むことが人にできるのは、神の戒めに耳を傾ける場合に限られます。また、そうするからこそ、そのような道を歩むことも可能になります。詩人が、私にあなたの「戒め」を隠さないでください、と祈るのもそのためです。この要求のもとで、ボンヘッファーは自らの生を形作ろうと試みました。そして実際に、そのことを見事にやってのけたのです。このことは、ボンヘッファーが1939年にアメリカで経験した内面的分裂に、最も明確に見てとることができます。彼は自発的にドイツを去りました。目前に迫ったドイツ国防軍からの配属命令を避けるためでした。彼はこの徴兵を拒否することに決めたのです。おそらく死刑判決が待っていました。ですから彼の友人たちは、ボンヘッファーがドイツを離れることを望んだのです。1939年夏、ボンヘッファーがニューヨークに到着した頃、世界情勢は再び急激に悪化していました。しかし戦時に、ドイツ国外にいることはボンヘッファーの本意ではありませんでした。確実に訪れるであろう〔ナチス・ドイツ〕崩壊の後からでは、ドイツ再建を共に担う権利は自分になくなる、と彼は考えました。留まって時を待つか、それとも直ちにドイツに引き返すか。この決断は、ボンヘッファーにとって最も苦渋に満ちた時間に属しています。アメリカ日記に、彼はそのことを書き記しています。彼はこれらの日々を、他の時に増して、『日々の聖句』(ローズンゲン)とともに過ごしました。ヘルンフート兄弟団が、それぞれの日のために聖句を選び、それを集めたこの聖句集は、ボンヘッファーにとって、多くのプロテスタント・キリスト者にとって今日までそうであるように、日々の道しるべでした。そして彼は、帰国の決意を固めたのです。1939年6月9日、日記には、次のような最後の書き込みがあります。

「船に乗り込んでから、未来に関する私の心の葛藤は止んでしまった。…ローズンゲン:「あなたに感謝します。あなたが私を卑しめられたことを。あなたは私に、あなたの掟を教えてくださいます」。私の大好きな詩編の、私の大好きな一節。」(DBW 15, 240)

まさにこの一節が、またもや詩編119編のものです(71節)。この書き込みの意味を、はっきりと見据える必要があります。ボンヘッファーは、卑しめられたことを感謝しています。しかしそれですべてというわけでもなければ、それが決定的なわけでもありません。なぜなら、卑しめは、神がボンヘッファーに神の「掟」を教えた、ということと結びついているからです。私の理解が正しければ、卑しめとは、次のように理解してよいのではないでしょうか。つまり、肝心なのは神の意思であり、この意思がある特定の決断を下すに際して、行くべき道を指し示すと。ボンヘッファーは、アメリカに留まる限り、自発的な囚われ人であったことでしょう。自分から選んだ捕囚の地で。しかし彼が属する地ではなく。卑しめと、神の掟を教えることについて語る詩編の一節を、ボンヘッファーは、「大好きな詩編の大好きな言葉」とコメントすることができるのです。

ですから、地上の宿り人として大切なことは、神の意思を行なうことです。したがってボンヘッファーにあっては、「地上の宿り人」というイメージは、私たちがそこに立っている「確かな大地」というイメージと一緒に理解されなければなりません。宿り人の身分には、この世界に存在する命から、その生命力を奪い取ることは許されません。むしろそうした命の力を、この世界における働きのために解き放つべきなのです。ギリシアの伝説の巨人アンタイオスのように確かな大地の上に立つよう、ボンヘッファーは私たちに促しています。この伝説によれば、巨人は一歩足だけで大地に立つとき、瞬く間にその力を失ってしまうそうです。

ボンヘッファーは、ナチ政権によって投獄され、自由を奪われますが、その牢獄から彼は、許嫁に宛てて手紙を書いています。そして「信仰」について語ります。しかも「世界から逃げ去る信仰ではなく、この世界で持ちこたえ、大地が私たちにもたらすあらゆる艱難にも拘らず、大地を愛し、大地にたいして忠実であり続けるような信仰」について。そして彼は、次のような印象的な一節を書き加えるのです。

「僕たちの結婚生活は、神の大地に対する肯定であるべきだ。僕たちの結婚生活は、大地の上で何かを作りだし、働くための勇気を強めるものであるべきた。僕は、たった一本足で大地に立とうとするキリスト者たちが、もう一方の足で天国に立っているんじゃないか、と心配しているのさ。」 (『許嫁への手紙』38頁)

私たちがこの大地で「よそ者にして宿り人」であり(DBW 15, 529)、そして同時に私たちがこの人生において、持てるすべての力を世界のために発揮すべきであり、そうすることが赦されていると知ること、これがディートリヒ・ボンヘッファーの証しです。こうして彼は、私たちに一つの手本を示し、イエスに従い、信仰のうちに私たちの道を歩むよう、私たちを促します。この聖句についてのメディテーションの中で、ボンヘッファーは次のように述べています。

「私はこの地上では、一人の宿り人に過ぎない。権利も、拠りどころも、身の保証もない。神ご自身が私をこんなにも弱くちっぽけな者とされた。だからこそ神は、私の目的にとって唯一の確かな担保を与えてくださった。それは神の言葉である。この唯一確かなものを、神は私から取り上げたりなさらないであろう。この言葉を神は、私のために用意し、この言葉を通して、私に彼の力を感じさせてくださるだろう。」(同書530頁)

 


 
 

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