クリスマスの喜び-飼い葉桶

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「クリスマスの喜び-飼い葉桶」

村椿 嘉信
イザヤ書53,5;

 先週の日曜日の説教の中で、私はルカによる福音書2章の前半部分に触れながら、マリアとヨセフがベツレヘムに滞在したときにイエスが生まれたこと、イエスは生まれるとすぐに飼い葉桶の中に寝かされたことをお話ししました。その時に二つのことを強調しました。第一は、神さまが働かれその力が地上に及ぶときに、地上のみすぼらしい飼い葉桶が光に輝く場所となる、ということでした。神さまの御心がかなったことが行われるときに、飼い葉桶に寝かされた幼子は、神さまの力を受けて、輝きの原点、喜びの源泉となります。

 第二に指摘したことは、確かに神さまの力は飼い葉桶の中にまで及ぶけれども、幼子が飼い葉桶の中に寝かされたという事態は、私たちが決して喜んで良いことではなく、むしろ私たち人間の罪の結果であり、私たちが恥じなければならない、ということでした。イエスが生まれた当時の人たちが、イエスを飼い葉桶の中に寝かせた、ということ、いやそのような場所に幼子を追い込んでしまったということ、そのことを私たちは恥じなければならないと思います。

 それとも私たちは、もしその場に居合わせたら自分はそんなことは決してしなかったと胸を張って言えるのでしょうか。現代のこの世界においても、生まれたばかりの幼子が、栄養失調で亡くなってしまったり、不衛生な状況に置かれたまま放置されてしまうことがあります。あるいは、日本のように裕福な社会の中にあっても、親が育児を放棄するということがあります。神さまはそのような光景を見られ、悲しんでいるはずです。なぜ人々が共に助けあって生きることができないのか、支えあって歩むことができないのかと、問題を提起しているはずです。

 私たちはそのような状況を知ってもっと声を上げるべきだと思います。もっと援助の手を差しのべるべきです。貧富の格差がますます広がりつつあることに対して、政治的な行動をも、厭わず起こすべきです。でもそのような状況をほとんど何も変えられずにいるというのが、私たちの現状です。そのような中にあって、神さまは今も、飼い葉桶の中にいる幼子に光を注ぎかけ、そこから何かを、新しいことを、始めようとしておられるのではないでしょうか。

 もしイエスがこの時代に生まれるとしたら、私たちは二千年前と同じことを繰り返してしまうかもしれない、そのことを思いながら、私たちはこのクリスマスをむかうべきであると思います。

 この二つのことを思い起こしつつ、私たちは、自分は今ここで何をなすべきなのかと問わなければなりません。そのことを今朝は、この説教の後で皆さんと一緒に歌う讃美歌256番をもとにお話ししてみたいと思います。讃美歌256番は「まぶねのかたえに」と歌詞が始まります。これは「飼い葉桶の傍らに」と訳すこともできます。その「飼い葉桶の傍らに」という歌詞を作ったのはパウル・ゲルハルトというドイツの牧師です。讃美歌の作詞家としてもよく知られている人です。

 私は今から約10年前に、ドイツのケルンにある日本語教会の牧師をしていました。その日本語教会の活動に全面的に協力してくださったのは、ケルンのその日本語教会が置かれているリンデンタールという地区にあるプロテスタントの教会でした。そこには三つの教会があるのですが、統括する役員会は一つです。だから一つの教会であると考えることができます。四人の牧師がいて、日曜日ごとに三ヶ所で礼拝を守っていました。

 その三つある礼拝堂の一つは「マタイ教会」と呼ばれています。これはイエスの弟子のマタイ、あるいは福音書記者のマタイを記念してつけられた名前です。もう一つは「ディートリッヒ・ボンヘッファー教会」という名前がつけられています。そして、三つめの教会は「パウル・ゲルハルト教会」と呼ばれていました。「ディートリッヒ・ボンヘッファー教会」は、戦後になってリンデンタール地区の新興住宅地にできた教会で、つい最近作られたと言ってもいい教会です。「パウル・ゲルハルト教会」は20世紀になってから作られた教会で比較的新しい教会でした。私が滞在していた約10年前に、教会堂の照明やステンドグラス、パイプオルガンを新しくするということで、「パウル・ゲルハルト」という名前にふさわしい会堂とはどういうものか、ということを、何度も重ねて議論していました。パウル・ゲルハルトというのは、讃美歌の作詞家として知られている人物ですから、讃美歌をモチーフにしてステンドグラスを作ろうということで、何回も見積を取ったりいろいろな案を出したりして、白熱した議論を続けていました。

 そういう教会ですから、マタイというイエスの弟子、それからパウル・ゲルハルトやディートリッヒ・ボンヘッファーという信仰者を模範にしつつ生きようという姿勢を意識的に持ち続けていました。そのような人たちの信仰をもとに現代のドイツの教会の問題に関わり、また社会の問題に関わり、福音を宣教して行こうという姿勢が感じられました。私たち日本の教会は、教会の名前に地名をつけることはあっても信仰者の名前をつけるということはめったにありませんから、そういった意味でも私は多くのことをそこで学ばされました。

 そのように今も多くの人たちに名前が覚えられ、教会の名前にまでなっているパウル・ゲルハルトという牧師は、若いときに30年戦争を経験しました。当時は神聖ローマ帝国という国が支配している時代でしたけれども、30年戦争の結果ドイツの国土は焦土と化したと言われています。敵も味方も関係なくお互いに消耗しつくしあうだけで、争い合った双方にとって何のメリットもない戦争となりました。

 この30年戦争というのは、実際には国際的な権力の駆け引きの中でおこった戦争と言われていますけれども、事実上、カトリック陣営とプロテスタント陣営に分かれて戦いがなされたために「最後の宗教戦争」であったとも言われています。この戦争は後々までもドイツの歴史に暗い影を落としました。パウル・ゲルハルトは若いときに、そういう戦争を体験しながら数多くの讃美歌を作りました。また、自身も生まれたばかりの子どもが亡くなってしまうという悲しい体験をしたり、今度はプロテスタント教会同士の争いに巻き込まれベルリンの教会を追われる、という体験もしています。

 そういう中で常に民衆の側に立ち、信仰に基づいて牧師としての活動を続け、パウル・ゲルハルトは讃美歌の作詞をしたのです。彼の讃美歌は非常に内面的な側面を持ちながらも、ただ内面の信仰の表明で終わってしまうのではなく、人間の現実を見据え、罪を明らかにし、神によるゆるしと和解を求めるものであった。そしてこの地上の歩みに新しく関わろうとする姿勢を明確に表明しており、力強く多くの人たちに希望を与えるものがたくさん残されています。まさにその一つの典型と言われるものが、この讃美歌256番です。

 この讃美歌をディートリッヒ・ボンヘッファーは獄中で思い起こしました。ボンヘッファーもまたパウル・ゲルハルトと同じような状況の中にいたと考えることができます。戦争が行われている。その中で自分が捕らえられてしまう。戦争に反対し、そしてユダヤ人たちを守ろう、保護しようというそういう行為、そしてヒットラー政権を倒そうとするそういう行為のために、ボンヘッファーは捕らえられたと言われています。

 ボンヘッファーの獄中書簡については、村上伸先生がすぐれた翻訳を出しておられますが、ここでは厳密な翻訳ではなく、その内容を紹介したいと思います。この讃美歌について、ボンヘッファーはこう語っています。

 この讃美歌ほど、どの言葉をとってみても実に内容が豊かであり、しかも美しい、そういう讃美歌はない。わずかながら内面的な、神秘的な部分もあるけれども、それはたいしたことではない。飼い葉桶の前のイエスと私たち、という関係の他に、私とキリストという関係が描かれている。イエスと私たちという一般的なことではなく、「私」と「イエス」、「私」と「キリスト」の関係についてこの讃美歌は語っている。

 「自分」「私」というものに迫ってくる、そういうものがこの讃美歌にはある。「私」と「キリスト」と「私」と「飼い葉桶の中の幼子」との関係についてこの讃美歌はよく描いている、とボンヘッファーは語っています。それがどういうことであるのか、私はこの讃美歌の歌詞に沿って考えてみました。

 「飼い葉桶の傍らで」(まぶねのかたえで)いう讃美歌は、パウル・ゲルハルトの原文では8節あります。その最初の部分、1節は日本語の1節とほぼ同じ内容です。「飼い葉桶の傍らに私は立ちます」そういう言葉で始まっています。「ああ、わたしのいのちのイエスよ、あなたが私に与えてくださった賜物をたずさえ、私はあなたのもとへ行き、それを捧げます。私の霊、私の思い、私の心、私の魂、私の気力をすべてお捧げします。すべてをお取りになり、あなたにふさわしく祝福してください」。直訳するとそのようになります。こうして比べてみますと日本語の歌詞でもほぼ原文に沿って翻訳がなされていることがわかります。

 讃美歌21では1節の最後のところは「受けたる賜物、ささげまつる」となっていますけれども、これは原文に照らし合わせて考えるならば「イエスが私に与えてくださった私の霊、私の思い、私の心、私の魂、私の気力をすべてあなたに捧げます」となります。「私」という人間のものでしかない「私の何々」「私の思い」「私の心」というもの、そういう「私の…」がつくもの、それをすべて取り除いて、空っぽになった私を、あなたの祝福で満たしてください。私を、私のものではなくて、あなたのものにしてください、というのがこの原詩の意味です。

 日本語で3節、4節の部分は、その「あなた」、飼い葉桶で生まれた方がどのような方であるのか、そういう内容の歌詞が続きます。4節の部分では、幼子にふさわしいのは飼い葉桶ではなくこがねのゆりかご、錦の産着であると述べています。イエスを寝かせるのにふさわしい場所は、こがね(黄金)のゆりかご、錦(金や銀の色の絹で作った織物、最上の絹織物)の産着だというのです。

 そういうことを表明した後で、日本語の5節、6節にこういう言葉が続きます。「あなた(イエス)はこの世の喜びを追い求めません。あなたは身体的な快楽を退けられます。あなたは私たちに代わって苦しみを担われるために私たちのもとに来られました。私たちの悲惨さ、貧しさを担われることによって私たちの魂に恵みをもたらそうとしています。それを私がお引き留めすることはありません」。ここでは「私たち」と語られています。イエスがやがて私たち人間のために苦しみを担われる。人間の悲惨さ、貧しさを引き受けられ、そのことを通して人間に恵みをもたらそうとされる、そういう方なのだということを、この節で語っています。

 イエスは苦しみを担われる。それを私は本来は引き留めるべきなのだけれども、しかし、私に恵みをもたらそうとして、この私に関わろうとしてイエスは苦難の道を歩んでくださる。だからイエスが受ける苦しみ、悲惨さ、貧しさというものを、私は引き留めることはできない。苦しみ、悲惨さ、貧しさのなかで貧しい姿をとられて、私に近づいて来られる、そのことを私は引き留めることはできません、というのが5節の内容です。

 そして日本語の6節(原文では8節)、この讃美歌の一番最後で、「私」が飼い葉桶になれるように、と願い出ている。これがある意味でこの詩の結論です。「私はただ一つのことをあなたに望みます。私の救い主よどうか拒まないでください。私がいつもあなたを私の心の中に、私のそばに、私のいるところに、見いだすことができますように。私があなたの飼い葉桶になれますように」と。飼い葉桶である私のもとに来て、あなたご自身を横たえ、あなたの喜びをすべて私にお与えください。そのようにこの讃美歌は結んでいます。最初の節で、私は飼い葉桶の傍らに立ちますと言い、最後の部分では私が飼い葉桶そのものになりたいという願いが表明されています。これこそボンヘッファーの言う「私」と「幼子」の関係がどういうものであるか、どうあるべきかということを伝える言葉であると言えます。

 羊飼いは飼い葉桶の中に寝かされている幼子を見ようとベツレヘムへ行きました。パウル・ゲルハルトも同じことを考えたのだと思います。できることなら、イエスを黄金のベッドに寝かせたい。錦の産着を着せたい。でもそれはできない。もし私が黄金のベッドを持ち、錦の織物を蓄えているような身分で暮らしていたならば、イエスはそのような中には来られない。イエスの誕生を祝うためには、自分が温かい所にいて、幼子イエスが来るのを待つのではだめである。そうではなくて自分が羊飼いたちのようにベツレヘムへ行き、飼い葉桶の中に寝かせられている幼子を尋ね求めなければならない。この私はどこでどのようにイエスを尋ね求めることができるのか。そのことを思いながら、パウル・ゲルハルトはこの讃美歌を作ったのです。

 そしてディートリッヒ・ボンヘッファーも自分はどこでクリスマスを祝うことが出来るのか、どこでイエスに従って行くことができるのか、どこでイエスがこの世に来られた喜びを祝うことが出来るのか、そのことを考えていたのだと思います。私たちは暖かい家の中で、あるいは教会の中で、クリスマスを過ごそうとしているかもしれません。しかしそれで良いのかという事を、私たちは反省しなければならないのです。私たちは出かけていって、幼子の寝かされている飼い葉桶を探し出し、その飼い葉桶の傍らに立つものとならなければならないのではないでしょうか。あるいは、飼い葉桶の傍らに立つというだけではなくて私自身が飼い葉桶になってイエスを抱きかかえるということを考えなければならないのではないでしょうか。その思いがパウル・ゲルハルトの心を揺さぶり、こういう詩を作ったのだと思います。

 主イエスが私たちのために来られた。そのイエスは「どこに」来られたのか。イエスは貧しさの中に来られた。苦しみのただ中に来られた。そのことを私たちも今思い起こすものとなりたいと思います。そこでこそ私たちは、本当のこの世の苦しみのただ中で生まれたイエスと、出会うことができるのだということをここで確認したいと思います。そして、そのクリスマスを心から祝うものとなりたいと思います。私たちはどうやってイエスに出会うことができるのか。私たちはその答えを、この讃美歌の中に見いだすことができます。今、この世界で多くの人たちがなお困難の中にいるということ、貧しさの中にいるということ。寒さの中で生まれてくる幼子までが困難な状況に追いやられているというということ。そのことを思いながら、そういう世界のただ中に来られたイエスキリスト、その誕生の意味をここで皆さんと共に考えながら、共にクリスマスを祝いたいと思います。

※ このテキストは村椿牧師の自筆によるものではなく、後日録音から起こしたものです。

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