福音書にはイエスが語られた言葉を,そのままではないにしても大変良く留めている個所があります。専門用語ではこれを,信憑性(authenticity)の高いぺリコーぺと読んでいます。今日のテキストはそうした信憑性の高い部類に入ります。概して論争物語と呼ばれているテキストや、譬話などが、後代の解釈や編集の手が加えられていながらも、誕生物語や復活物語などの伝説風の物語よりは遙に信憑性が高い記述であると見なされています。本日、共に学ぼうとしている「権威についてのイエスとユダヤ人指導者との論争物語」はイエスの姿と働き、また言葉が生き生きとそのまま現代の私達に伝わってくるのを感じないでしょうか。マルコ記者もこの物語に深く感動して,今も生きているということを読者に伝えるために、現在形で書き記しています。それは、過去の話ではなく、聞いている全ての人が今、イエスと出合うことの出来る素晴らしい出来事として語っているのです。
お分かりの通り、この「権威論争物語」は大変痛快なお話です。質問者はイエスを罠にかけるために、悪意をこめてイエスに問い掛けます(28節)。イエスはその悪巧みを読みとって質問した相手にイエス自身が問い返します(29~31節)。イエスの敵対者は答えられないばかりか,民衆を前にしてどうしたらよいか狼狽する様子が描かれています(31~33節)。最後にイエスは「権威」と言う問題について最も正しい、的確な答えを私達に述べて、全体を閉じています。これは、実に面白い、痛快な物語です。祭司長、律法学者,長老と言えば、祭政一致の社会では、宗教の分野では勿論のこと、政治的にも社会的にも、最高の地位にあった人々でした。言わば、この世的な権力によって支えられた権威を誇りにしていた人々であります。そのような彼らが,イエスの宮潔めの出来事を知って苛立っている様子が、28節の質問になっていることが分かります。28節の質問には二つの問いが含まれています。一つは前半にある通り、「一体あなたは、私達を差し置いて,誰の許しを得て、そう云うこと(マルコ11:15~19)、即ち、神殿内で人々に教えたり、商人や、両替人を神殿から追い出したりするのですか。」と云う問いです。いま一つは、指導者達が恐らく最も関心を持っていた問題であったと思われます。そして、その答えによってはイエスを犯罪人として逮捕する有力な証拠を得ようと云う魂胆が伺えるような質問であります。その第二の質問とは、「そもそも誰がそうする権威をあなたに与えたのか」という問いかけです。ここには罠が仕掛けられているのです。その罠を見ぬいたイエスは予想外の質問を指導者達に投げ返します。しかも、その中にはイエスが答えるべき答えが秘められています。イエスは本当に優れた知性の持ち主であられたことが良く分かります。そうした知性は譬話でも発揮されていますが、論争物語では特に良く現れているのではないでしょうか。イエスのカウンタークエスチョンはこう云うものでした。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。そうすれば、わたしも何の権威でこのようなことをするのか、あなた達に言おう。」
イエスが予想した通り、彼らは答えに窮します。「もし天からであると言えば、ではなぜあなたたちはヨハネを信じなかったのか」と言うだろう。しかし、もし「人からである」と云えば、民衆は我々から離れて行くだろう。このあと、編集者によって注釈がつけられています。即ち、「民衆はヨハネを本当に預言者であった」、と信じているからである。バプテスマのヨハネについて、その人気の度合いは聖書にも記されておりますが(マルコ6:14~29)、Flavius Josephus フラヴィウス・ヨセファス(37~100AD:ユダヤ古代史Jewish
Antiquities 18)にもその人気と名声が記されています。とりわけ,ヘロデ王がヨハネの人気と名声を嫉んでヨハネを処刑したことによって、益々その人気は民衆の間に広まって行った、とヨセファスは語っています。
祭司長、律法学者、長老の敵意に満ちた罠を十分に読み取りながら、イエスは見事な切り替えしをしておられます。しかも、彼らが頼りにしていた権威が、この一言によって空しくされていることにも注目しなければなりません。洗礼者ヨハネを引き合いに出しながらイエスはユダヤ人指導者たちが拠り所にしている権威がどんなに狭く、限られたものであるかを、思い知らせようとしておられます。民衆は、どの学閥にも所属せず、この世的な権威からは程遠いヨハネの方を尊敬し,師として仰いでいたことは、ユダヤ人指導者達も痛く知っていた事実であるからです。権威についての論争物語が現代的であるのは、ユダヤ人指導者ばかりでなく、わたし達もイエスから批判を受けている、と云うことではないでしょうか。この物語ではわたし達が日頃、何に権威を置いて生きているのか、が問われています。わたし達は毎日の生活で従うべき権威を何処に仰いでいいるのでしょうか。日頃の生き方を反省してみるときに,私は、ユダヤ人指導者が誇りにしているような権威を、自分もまた誇りにして生きているのではないか。そう思うとき、権威についてのこの論争物語が一層重みをもって迫って来るのを感じます。
わたし達が食べる食べ物、わたし達が着ている衣服、わたし達が雨露をしのぐ家、わたし達がこの教会へ来るために利用した乗り物や道路,わたし達が捧げる讃美歌や音楽、まだまだ、数え上げれば切りがないほど日常生活で必要なものは、伝えられ、教えられ、守られて来たものであります。どれ一つとして自分一人で造ったと言えるものはありません。人間は先祖から知恵や技術を受け継ぐことによって文化を生み出して来ました。そこには、伝えるもの、教えるものと受けるもの、教えられるものとが存在しています。教える側には、学ぼうとする者が手本に出来るような力が必要であることは言うまでもありません。学ぶ人が教える側の人に対して感じる威力のことを、わたし達は「その道の権威」と呼んでいます。職人は磨き上げた腕を、技術を大変誇りにしておりますが、それはただ単に自分を誇りにしているのではなくて、その受け継いだ腕や技量、それを授けてくれた流儀、流派や師匠を誇りにしていることも私は良くわかります(私の父は80歳を過ぎるまで挟みと糸で生きてきた洋服の仕立て屋でした)。
イエスも大工の家に生まれ、洗礼者ヨハネに出会うまでは、父親と同じ大工の仕事をしておられた、と言うことです。とするならば、あの職人気質は良くお分かりになっていたに違いありません。受け継ぐ技と、師匠に権威を感じておられた方であるだけに、なおのこと、権威なくして人間は生きることも出来ない存在であるのは百も承知しておられたに違いありません。権威を認めるということは、私達が自分で必要としているものに与ることを求めて、やや、大げさに言えば、授けて下さる師に対して、膝を屈め、拝する程までに傾倒する状態を表しています。ですから、本当に学びたいと思う人、師の持っている優れた知識と、技、その力に与りたいと心から望んでいる人は、目を輝かせて師に近づこうとするものです。時には師とその流儀と免状を祭り上げることさえ致します。私達はそれぞれ自分が辿ってきた道を振り返って見るならば、今までに師と仰ぐ優れた人をどれだけ数え上げることが出来るでしょうか。師を思うとき、私達はその先生に何がしかの権威を認めている筈です。同時に、その先生を模倣し受け継いでいると言うことが起こっている筈です。子供が親に良く似ているのは、遺伝がそうさせているだけでなく、子供にとって両親は長い間、自分の手本であり見習うべき模範であったと言うことも、忘れてはならない要因であります。ですから、権威という言葉を使わなくても、それなしに私達は伝える力、伝えられる恩恵に与ることはなかったでしょうし、権威なしに私達は模倣することは出来なかったと言えるのです。権威とはことほど左様に私達の日常生活に結びついたものであります。そしてそれほど迄に日常的であるならば、先の論争物語が私達にとっても現代的な問いを持っていることが分かります。権威についてわたし達は祭司長や律法学者、長老たちと違うところはない存在です。時には彼ら以上であるかもしれません。権威に寄りそう度合いについてわたし達日本人は他の国の人々よりも遙に大きいと言えないでしょうか。受験地獄が学閥や、学歴偏重に繋がり、有名企業を志向する就職戦線。「寄らば大樹の陰」と言う格言がある通り、私達は権威の傘に寄りそう傾向を既に身に付けているのです。そうした中に身を置くと、大樹の外にいる人々に対して、ユダヤ人指導者が犯しているような偏狭な態度が現れます。相手が正しいと思っていても,素直に受け入れることが出来なくなるのです。日本の文化と伝統を誇りにする人々が、過去の日本が犯した過ちを過ちとしてみる目を失います。自分が所属する宗教、宗派が長い歴史を通して民族の団結を支えてきただけに、他の宗教や生き方,生活習慣を認めることが出来なくなったり、一緒に済むことを困難にさせています。北アイルランドのプロテスタントとカトリックの争そいや、パレスチナで毎日起きているテロ事件などは、大樹と大樹がぶつかり合う悲劇としか言いようがありません。そう考えると、「権威についての論争物語」が如何に現代的問題に関わっているかが分かります。
この物語で私が最も感銘を受ける処はイエスが終わりに取られた働きであり、また、そこで述べておられる言葉であります。33節ではこう記されています。「そこで彼らは、『私達には分かりません』、と答えた。するとイエスは言われた、『わたしも何の権威によってこれらのことをするのか,あなた方には言うまい』。
この様なイエスの働きの中に、私はこの方の限りない優しさを感じます。相手が答えに窮してタジロイデいるその場面で、イエスはこれ以上相手を追い詰めることはなさらない。優れた教師は相手にその答えを自分から尋ね求めるように仕向けて行くものです。そうした教師の優れた姿勢を私はイエスに見出します。相手は既にバプテスマのヨハネの例を挙げただけで、イエスが答える中身を読み取っている。その正しさも分かっているかも知れません。ただ、それぞれの立場上、どうすることも出来なくなっている。イエスはこれ以上相手を追い詰めてはいないのです。そこに、限りない優しさを感じます。ヨハネ福音書にも出てくる(3章)ニコデモのように何時の日か、最後には従うものになる道を(19章39節)イエスは備えているように見うけます。もっと、素晴らしく感銘を受ける処は、イエスが話された言葉にあります。イエスの権威とは何か。何を権威にしてイエスは働いておられるのか。答えを期待している人々にイエスは答えを留保しています。もっと正確に言うならば、お答えを避けておられます。権威について、その所在をお答えにならない事が、最も相応しい回答になっています。権威とは私達がそれなしには社会生活が出来ないほど大切なものであります。しかし、それは括弧付けのものであって、一人歩きしてはならないのです。教えるものは尊敬されるだけの中味を持って相手に伝えなければなりません。権威を感じるのは受ける側であって、教える側がひけらかす物ではありません。受ける側の素直な評価が権威を伝えるのです。その権威に与って受けてきたものが、何時の日か、教え、伝える者へと成長していくのです。権威という言葉はこの所で、ギリシャ語の exousia が使われています。これは、exと ousia の二つから出来た言葉です。 Ex が「外へ」と言う意味であれば、ousia は『存在』と言うことで、この単語はもともと、「存在の外へ」という意味を持っています。権威とは、それぞれが「自分の存在の外に」出ることを意味しています。イエスがお答えにならなかったということは、権威について、最も相応しい姿勢をもってその中身を表わすためであったのです。全ての人が自分の存在の外に出て、崇めるべき方に持てる賜物を捧げていく。その捧げる対象こそ、権威に他なりません。(本日、捧げたかった聖歌隊による讃美歌:F.シューベルトのドイツミサ第二番「栄光,神にあれ」は私達ガ権威について心すべき姿勢を歌っています。)
両親は子供に対して正しい道を示す権威を備えていなければなりません。教師は生徒,学生に対して優れた力を備えていなければ、教師として立つことはできません。しかし、いずれもこうした権威は括弧付きのものであって、両親も子供も、教師も生徒も共に跪く祭壇がなければ、人の権威は恐ろしい悪魔の姿に変身してしまうのです。私達は今までに何度もこの世の権威が悪魔の姿に変わっているのを見てきた筈です。宗教の世界ですら、人の権威を介すると、悪魔の様相に変ってしまいます。だがらこそイエスは,私が権威である、と云って、崇拝の対象をユダヤ教に対抗して表わすことをなさらなかった。崇拝の対象は,人の権威を介さなければ,本来一つであるし、膝を屈める対象も全て一つであるべきものです。それが「存在の外に」権威があると言うことではないでしょうか。イエスはそれをここで実践し表わして下さいました。
終わりに、招きの言葉として礼拝の初めにお読みしたロマ書14章11節をもう一度味わっておきたいと思います。少し前の7節からお読みします(294頁)。
「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、誰一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って生きるにしても、死ぬにしても、私達は主のものです。主は言われる『わたしは生きている。すべての膝は私の前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。
主イエスキリストの父なる神様:
あなただけが、命と力の拠り所である、とする信仰を何時も持ち続けることができますように、わたし達を誘惑からお守り下さい。私達の全ての中心にあなたが立っていておられることを忘れることなく、持てる力を捧げてあなたのご栄光のために、人々の平和のために生きるものとならせて下さい。主の御名によって祈ります。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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