一昨日のブッシュ大統領の議会演説があった今、我々は、「いよいよ報復戦争は避け難くなった」と感じている。そのような緊迫感の中で、我々は予定されていた「葉山カンファレンス」を行い、「アジアを考える」という主題で共に考え、祈る。恐らくこの主題は、現在の危機的な状況とまんざら無関係ではないであろう。
葉山では一緒に讃美歌をたくさん歌ったり、ゲームをしたりという楽しい交わりもあるし、祈りを深める時間もあるが、主題との関連では、先ず何人かの参加者が自らの「アジア体験」を語ることになっている。単に「体験談を聞く」だけで終わらせないために、皆でさらに語り合う中から将来への指針を見出し、特に「アジアにおいてキリスト教はいかなる役割を果たすことができるか」という方向に話題を深めて行けるように願っている。これらの経験は、事情で出席できない皆さんとも何らかの形で分かち合いたいし、少なくとも、この開会礼拝の時間は既に共有しているわけである。
さて、今日の説教を、私は自分の「アジア体験」を語ることから始めたい。
1936年の夏に、職業軍人であった私の父は、習志野の騎兵連隊から「関東軍」(満州に駐留した日本陸軍の最強軍団)に転出した。そのために、家族揃って当時「満州国」の首都であった新京に転居し、僅か一年ほどだがそこに滞在した。
町外れに将校官舎があり、少し離れたところに専用バスの停留所があって、子供たちはそこから軍のバスに乗って日本人学校に通った。いわば支配者としての特権を享受する生活で、中国の人たちとの接触は殆どなかったが、それでもごく限られた機会に人々の生活を垣間見ることが出来た。当時小学校一年生であった私の目には、見るものすべてが珍しく、記憶は今でも鮮やかである。
バス停まで歩いて行く道は野原の真ん中に通じていたが、ある日、その途中に赤ん坊の死体が投げ出されているのを見た。恐る恐る「どうしたの?」と両親に聞いてもちゃんとした説明をしてくれなかったが、要するに満州は「遅れた貧しい国」であるという見方が、次第に幼い私の中に植えつけられたように思う。
また、その道の中ほどに露天掘りの井戸があって、中国の人がよく水を汲みに来ていた。枠も釣瓶もなく、いきなり穴が開いている。冬になるとその周りはツルツルに凍り、「危険だからそこは避けて通るように」と両親から厳しく言われた。こういうことも、先程の印象を強める結果になったが、それとは別の種類の体験もある。
ある日、父の休みの日に、冬に備えて毛皮の防寒衣類を買うために一家で市場に出かけた。「何々洋行」などという看板を掲げた店が並んでおり、その一軒に入って帽子や手袋、それに母親のコート等を買おうとしている所へ顔を出した店の主人は、白人の紳士だった。これを見た父は彼に近づいて、「あなたは何人?」と聞いた。「イギリス人です」。すると父は、「それでは、あなたからは買わない」と強い調子で言って、店から出て行ってしまった。子供たちはドキドキしながら立ち尽くしていた。父の強い眼差し。人の良さそうなイギリス人の困惑した様子。その情景は忘れられない。
後に歴史を学ぶようになってから、その出来事の意味が私にもだんだん分かるようになった。つまり日本は、その頃はまだ貧しかった中国を舞台にして、欧米の先進国と利権を争っていたのである。中国とはまともに向き合っていなかったし、軽蔑していた。それが支配者である多くの日本人の「アジア体験」、「中国体験」であった。明治以来、日本は「脱亜入欧」をモットーとしたが、正にそういうことが私の周りにも起こっていたし、大きな目で見れば、その行き着く果てが日本のアジア侵略だったのである。このようなアジアとの正しくない関係は、清算しなければならない。
今日のテキストには、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(3)と勧められている。これは個人と個人の間だけではなく、国と国・民族と民族の間でも生かされなければならぬ原則である。
中国は、歴史上最も古い文化を持つ先進国であった。日本の文化で、中国の恩恵を受けていないものは一つもないと言っていい程である。その意味でも、「相手を自分よりも優れた者と考える」ことは当然だ。しかし、このパウロの言葉はそれだけの意味ではない。
仮りに、「優れている」点が目に見える形で認められなくても、我々が出会うすべての個人・すべての国を尊敬しなければならない、ということだ。何故か?
イエス・キリストがそうなさったから、とパウロは言うのである。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。…へりくだって、…十字架の死に至るまで従順でした」(6-7)。
どんな人の中にも、このイエスがおられる! 我々が出会う一人一人の人間を、このイエスを通して見なければならない。身分とか、生まれつき持っている能力とか、学歴とか、そういった条件によって人を判断するのではなく、「この人のためにも主イエスは命を捧げられた」という、この一点から見ること。その時に初めて他者が見えてくる。これは国家や民族についても当てはまる。「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」という勧めは、そういう意味なのである。ここからにじみ出てくる謙虚さを、我々は身につけねばならないだろう。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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