「井戸の傍の出会い」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

私は今ビュルテンベルク州教会のロイトリンゲン教区で働いています。仕事の内容は、色々な教会や学校で、日本、特に日本の教会についてお話をすることです。ドイツ人に外国の教会の様子を知ってもらい、また私たちが全世界にあるキリストの教会の一員だということを理解できるように努めています。たくさんの方と出会い、お話しができるので、なかなか面白い仕事です。何よりもうれしいのは、日本での経験や、皆様から教えていただいたことを、大勢の方に伝えられることです。

人との出会いが大事だと思います。

私は日本に住んでいたときに、習っていたお茶の先生から「一期一会」という言葉を教えていただきました。「一期一会」という言葉と、その背後にある思想を大切にしたいと思います。

今日のため選んだ聖書の箇所も一つの出会いの話です。
ある井戸のそばでの二人の人の出会いです。
なかなか珍しい、興味深い出会いです。
二人の会話によって、二人とも変わっていきます。
頼んだ人は与える人になり、与えようとした人はいただく人になります。

一人の女性は水をくみに行っています。
彼女にとって、それは日常的なことで、習慣であります。
ですから、今日も、特別なことが起こることは期待していません。

このサマリアの女は、どなたでしょうか。
聖書には、彼女の名前が書いてありません。
それはよくあることですが、残念だと思います。
私は彼女の名前を知りたいのです。
その名を使って彼女のことを話したいのです。

ヨハネ4章を読みますと、サマリアの女の姿が少し見えてきます。一つは、彼女は正午ごろに水をくみに行ったと書いてあります。それは、一番暑い時間なので、井戸に行く時間ではありません。大抵は、女のかたは、涼しい朝または夕方に水くみに行きます。

もう一つは、この女性は数人の男性と同居したことがあると書いてあります。
ある聖書註解者によりますと、この二つのことは彼女がだらしのない女だと決めつける理由としては十分なことです。
彼女は、不道徳な女で、男性であれば誰とでも一緒になってしまうと言われています。
そういう女なので、町の人々は彼女との付き合いを避けています。
ですから、彼女は他の女性と一緒に井戸に行かなかったのだと説明されています。

しかし、最近の註解者はそれを疑問にしています。
その時代を改めて研究しますと、女性の実際的な状態が以前よりよく理解できます。
あのときには、結婚をしていない女性または夫をなくした女性は、ほとんど生活に困って、生きることに苦しんでいました。
生きるためには、再び結婚をしなければなりませんでした。
あるいは、男性と一緒になって、暮らさなければなりませんでした。

その説明をきいても、一つの疑問は残ります。
それは次のことです。

どうして彼女は一番暑いときに水くみに行っているのでしょうか。
その答えについて、私たちは想像するしかありません。
もしかしたら、彼女はいつもよりたくさんの水を使ってしまって、再び汲みに行ったのでしょうか。
あるいは、彼女はただ一人になって、ゆっくり考えごとをしたかったのかもしれません。

しかし、それは私たちの想像にすぎません。
本当の理由は分かりません。

それでも、私はこの“正午”という言葉から、もう少し考えてみたいと思います。
“正午”それは、一日の真ん中の時で、太陽が一番高い所にのぼっています。
太陽は、天の頂きにあります。
「天の頂きにあります」ということを、もう少し自由に考えて、女性のことに置きかえてみたいと思います。

たぶん、あのサマリアの女は、人生の半ばに達しています。
もう人生の半分は終わってしまいました。
そこで、彼女は今までの生き方をふりかえって考えています。若い頃抱いた夢や望んだことはどうなっているか。これからどういうふうに生きて行きたいか。自分に問いかけているのかもしれません。私の経験でもそうですが、人生の半ばは自分の生き方をあらためて考える時期でもあります。そのとき、今までの生き方をまったく変えてしまう人もいます。

もしかしたら、私の解釈は、少し言いすぎかもしれません。

しかし、4章の流れを見てみますと、サマリアの女にも一つ大きな変化が予告されています。
井戸のそばでの出会いによって、彼女は今までの人生の源泉となっていたものを置き去りにして、生きた水を下さる方心を向けます。
このいただいた水は、彼女の心の内に泉となります。



私の思いが、少し話の先に走ってしまいました。
7節に戻りたいと思います。

井戸についたとき、サマリアの女は知らない男の人と出会います。
その方は休憩しているイエスです。

あの時代では、ユダヤ人とサマリア人との関係が非常に悪い状態でした。
特に、ユダヤの男性がサマリアの女性と話すことはまったくありません。
しかし、イエスはそういう習慣を無視して、サマリアの女に声をかけます。
「水をのませて下さい」と頼みます。
もちろん、彼女はおどろきます。どうして、あの男性がよく知っているはずのきまりを守らないのか分かりません。
「ユダヤ人として、本当にサマリアの女から水をもらうのでしょうか」と彼女はイエスに問いかえします。

この質問にイエスは怒らないで、彼女にやさしく答えます。

彼女の質問に応じることによって、イエスはある意味でサマリアの女に勇気をあたえています。
と言いますのは、イエスの答えによって、彼女は自分の疑問を正直にどんどん話しはじめるのです。

それによって、二人の間に会話が始まります。

私は、その会話を初めて読んだときに、二人はおたがいの言ったことを分からないまま、答えているという印象を受けました。
しかし、よく読んでみますと、二人は水について別々な意味を使っているということを発見します。
会話の流れを観察しますと、二人の役が少しずつ置きかえられていきます。

  • 先ほど渇いたノドをいやすために水をたのんだ方は、今、水を与えようとしています。
  • そして、先ほどまで家のために水をくみに来ていた女性は、今生きた水をうけようとしています。
    その水は、命の渇きをいやしてくれそうです。

しかし、サマリアの女は、すぐにはイエスが下さる水の意味が理解できません。無理もないと思います。
彼女は、なれたものや、目でみえるものから、離れられません。
  「あなたはくむ物をもっていない」
  「井戸は深い」
と彼女は実際的な理由をならべています。

それは全部、このユダヤ人から何かをもらえることを、否定しています。
イエスが私たちに与えようとしているものを理解するのは、なかなかむずかしいのでしょうね。

イエスは、サマリアの女にこう言います。
(ドイツ語の聖書からの直訳です)
神が、あなたに与えたいものがわかっていれば、あなたは頼みます。」  

神が、あなたに与えたい...

その言葉は、驚くべき発言だと感じます。
イエスがここで私たちに紹介する神は、与える神です。

それは、私たちが神について抱いている印象と一致しますか?
私たちは、どういう印象をもっているのでしょうか。

あまりはっきりしない印象でしょうか。
または、いつも何かを要求する神でしょうか。
きびしい父のように、私たちに従順を期待し、反論をゆるさない神なのでしょうか。
あるいは、いつも、「それはいけません」と、きまりばかりを言いわたす神なのでしょうか。

しかし、今イエスがここで話される神はちがいます。
その神は、女に向かって、いいえ、彼女を待っておられます。
彼女と日常生活の場で出会います。
彼女の問題や疑問を真剣に、受け取っておられます。

出会いの初めには、掟や法律ではなくて、神はまず彼女のありのままを受け入れています。

イエスは、サマリアの女に特別な水を与えています。
彼女の切なる渇きをいやされるためです。
数人の男性と関係があったのは、彼女の心の渇きを表現していると私は思います。
受け入れて、愛してほしいという切なる願いです。
安らぐために、今まで何かを求めていました。
イエスはその心の渇きを充たしてあげたいのです。

サマリアの女は少しずつ、秘密がわかって来ます。
イエスが人間より偉大な方であることを見分けて来ます。
彼女は「私はここで、本当の泉のそばにいる」とわかります。

この人は私がしたことをすべてご存じです。
しかし、私をだめにするために、それを利用しません。
かえって、この人は、私のありのままを認めています。
私の切なる渇きをいやして下さいます。

サマリアの女は、今まで、もう終わっていると分かります。そして、イエスが与えようとしている水を受け取ります。
彼女は心の泉になる水をいただきました。

私が、日本に住んでいたときに、「望みの門」という施設で働いていました。
その寮には、いろいろな問題を抱えている若い女性が入ります。
指導員と相淡しながら、仕事を探して、自立を目的にして生活をしています。
寮生は、家族との関係は大抵悪くて、同居はもう無理になっています。
愛されることを求めているうちに、次々と絶望を経験して来ています。
彼女たちと一緒に生活したことは、私にとって貴重なことで、物の見方がかなり変わってきました。
聖書も別な目で読むようになりました。
今日の箇所もそうです。

イエスは、一人一人の人がものすごく大切で、その人の悩みを見分けて接しています。
「主は、あなたの名をよぶ。」別な言い方で、「主はあなたの名をご存じです」と聖書に書いてあります。
イエスの生涯を見ますと、その偉大な言葉は具体的になります.
イエスは井戸のそばで一人の女性と会い、彼女と話し合うことを望んでいます。
彼女の人生に非常に興味をもっています。
サマリアの女にだけではなく、私にも、皆さまにもそうです。

イエスにとって、一人一人はかけがえのない大切な人です。

ユダヤ人のイエスは、サマリアの女と話します。
男性であるイエスは、女性と会話します。
神のひとり子であられるイエスは、サマリアの女に水を頼みます。


この三つのことから、次のことが言えると思います。
イエスは、誰と接することもおそれていません。
人間は、人と人の間に目で見えないカベを作ってしまいますが、イエスはそれを無視してしまいます。
かえって、それをこわしています。
イエスにとってはいつも、一人の人間の方が、不文律や昔からある掟より大事です。
人が、自由に生活することに、一つのきまりが邪魔をすれば、イエスはそれを捨てます。
イエスにとって、私たち、人間、一人の人は、何よりも大切です。
この人間のために、イエスは自分の人生の全てを与えて下さいました。
イエスの言葉と行いに、その全てがあらわれています。
そして、最後に生命まで捨てて下さいました。


ドイツでは、最近、外国人に対しての差別や暴力が急に増えて来ました。
毎日のように、どこかで事件が起こります。
日本でも報道されていると思います。非常に恥ずかしい状況です。
全世界のいろんな国から、似ているとニュースは知らせています。人は、肌の色や宗教のちがいや、性のちがいで差別されています。
ここで改めてイエスの生涯を見本にしたいと思います。

いいえ、しなければなりません。
差別された人のために声をあげるべきだと思います。

過激主義者の力がこれより強くなりませんように、私たちは運動をするべきです。   誰でも、一人一人が、どこでも自由に安全な生活ができるために励みたいと思います。

最後になりますが、ヨハネ4章にもう一回戻ります。
井戸のそばの出会いは、ささいな出会いにみえましたが、非常に大事な深い意味をもっています。

今でも神とは、日常生活の中で出会うことができます。
なにげない所で、神は私たちと出会い、接しておられます。

今日からの一週間を注意深く送りたいものです。
そうすると、毎日の生活の中で神との出会いを感じられると思います。
神はその毎日の出会いを待ち望んでおられます。
そして、神との出会いから、人との出会いも大事にしたいと思います。
 
 

The Cross Pendant

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He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

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