「主の契約の箱」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「十戒」がシナイ山でモーセに授けられた時、それは二枚の石の板に書かれていた。第一の板には神と人間の間のあるべき関係を定めた掟が、第二の板には人間同士の正しい関係を規定した掟が書かれていた。だから、レンブラントやシャガールが描いたモーセは、食パンの切断面のような形をした二枚の板を持っているし、ミケランジェロのモーセ像が右の脇の下に抱えているのも、四角い板だけれどもやはり二枚ある。これが「契約の板」である。神がこの民族に「十戒」を中心とする「律法」を与えたのは、約束の相手として選んだ神の愛の徴である。

今日の個所に出てくる「主の契約の箱」というのは、この二枚の石の板を収めた箱のことである。神の愛が充満したこの箱を、ユダヤ民族はまことに大切にした。その形状は、出エジプト記25章10節以下に詳しい。遊牧の民であった頃、これは通常、幕屋の最も聖なる中心、つまり「至聖所」に置かれていた。王国時代になると、ソロモン王の建てた壮麗なエルサレム神殿の一番奥まった所、「至聖所」に安置されるようになる。これこそ、イスラエル民族にとっては一番大切な拠り所なのである。だから、特別な儀式や事件の際には、祭司たちがこの箱を担いで先頭に立った。「御神輿」のようなものだ。代表的な例は、エリコ攻略のケースだ(ヨシュア記 6,1-20)。

 

ところが、紀元前587年にエルサレムはバビロニアのネブカドレツアル王に攻撃されて陥落した。ゼデキヤ王は捕らえられ、自分の王子たちが無残に殺されるのを目撃させられた上で両眼をえぐられ、バビロンに強制連行されるという悲惨な目に遭う。祭司や学者など主だった人々も連れて行かれる。名高い「バビロン捕囚」である。

何よりも人々を落胆させたのは、あのソロモン神殿も焼かれた、という事実であった。その上、「契約の箱」も焼失したらしい。つまり、ユダヤ民族にとって最大の拠り所であったものがなくなったのである。

このような時代に、エレミヤは預言者として召されたのであった。だが彼は、この出来事をただ嘆いてばかりはいなかった。この歴史的な大事件には大きな意味があるはずだという、神の啓示を受けたからである。

神の都エルサレムがバビロニアの攻撃を受けて陥落したこと。王を始め、誇り高い人々が屈辱的な目に遭わされたこと。故郷から遠く引き離されて、バビロンの川のほとりで、50年にわたって幽囚の日々を過ごさなければならなかったこと。しかも、心の拠り所である神殿は既に廃虚と化し、「主の契約の箱」さえ焼失したこと。――これらすべては、この民族が神の愛に背いて「背信の」生活を送ったことに対する神の「愛の鞭」なのだ、とエレミヤは信じた。だからエレミヤは、心を込めて「背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる」(14)と語りかける。この悲劇は、あなたがたに対する神の呼びかけなのだ。どうしようもない惨めな結果というだけではない。それよりも、ここから将来を切り拓くための「神の布石」なのだ。

だから、帰ってきなさい。神は、 「一つの町から一人、一つの氏族から二人」(14b)という風にごく少数ではあるが、「わたしはあなたたちを連れてシオンに行こう」(14b)と約束しておられる。「背信の子らよ、立ち帰れ」。

エレミヤにとって、「バビロン捕囚」という悲劇的な出来事は、「背信の子らよ、立ち帰れ」という神の呼びかけに他ならない。そして、人々はシオンに帰ってくるだろう。エレミヤはそう信じた。そこには、正義と公平を旨とした正しい社会が実現するだろう。賢い牧者たち(=指導者たち)が良い指導をするだろう。そして、「その日には、…人々はもはや、主の契約の箱について語らず、心に浮かべることも、思い起こすこともない。求めることも、作ることももはやない」(16)

これはどういうことか?

これまで最も頼りにしていた神殿が完膚なきまでに破壊され、「主の契約の箱」が消滅するという事態に直面した時、エレミヤは過去を振り返って嘆くことを止めたのではないか。新しい将来が始まる。それは真に新しい将来なのだ。

 

ベルリンで、「最後の階段」という題の、ボンヘッファーに関するカナダの劇映画を見る機会があった。ボンヘッファーの親友であったエバハルト・ベートゲが企画段階から相談に与ったという。完成直前に亡くなったため、この映画はベートゲに捧げられた。ドイツで初めて上映されるということで、ベートゲ夫人が会場に紹介されたり、監督や主演俳優たちが顔を揃えて挨拶したりという珍しい場面も経験した。

映画の出来は「まあまあ」である。翌日、ベートゲ夫人に会った時に感想を聞いた所、いくつか不満を洩らされた。実際に彼と共に生きた経験を持つ人々にとっては、やはりそうなのだろう。だが、劇映画はドキュメンタリーとは違う。これはこれで、一般社会である役割を果たすだろうと思われた。

私にとっては、ナチスの手によってめちゃめちゃに荒らされた教会に立ちつくすボンヘッファーの姿が印象的であった。処刑の数日前には、空襲で破壊し尽くされた教会の中に立って、廃虚の中で将来について語っていた。全体を通じて、「将来を信じる」というキーワードが明確で、ここにこの映画の優れた点があると思った。

そうなのだ。現在がどんなに絶望的に見えようとも、将来を信じる。神が将来を来らせる。エレミヤが信じて語ったのも、このことではなかったか。



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