「人を知ること」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

 

I

人を知ること、自分を知り他者を知ること、そして必要に応じて自分や他者と仲直りできること、これらのことは私たちが生きていく上での基本的な条件に属しています。他者を知らない人、つまり私に語りかける、私とは異なる人格を経験したことのない人は、おそらく自分が何者なのかを知ることがないでしょう。また自分を受け容れることのできない人には、他者を赦すことも難しいのではないでしょうか。自分をとりまく世界が自分に対して好意的であることを経験することが、私たちの人格形成にとって根本的な意味を持つことは、現代の心理学が明らかにしている通りです。

 他方で、自分を知り他者を知ることが危険にあふれた出会いであることも明らかです。成長するにつれて私たちは、他者との出会いから傷を受けるという経験をします。また自分自身や他者に向けられる攻撃衝動を押さえることができないという経験も。私たちの世界は、確かに暴力に溢れています。とりわけ子供や若者たちがさまざまなかたちで暴力に巻き込まれる事件が、最近は跡を絶ちません。こうした事件の報道にぞっとさせられるのは、それが私たち自身の心の闇を垣間見させるからではないでしょうか。私たちの内側には、とても大切なものを壊そうとする衝動が常に潜んでいる、しかも私たちの時代の闇は、何をどうすればよいと一口で言えるほど根の浅いものではない。そのことをこうした事件は思い起こさせます。

 人を知ること、和解を通して自分を知り他者を知ることは、生きていく上で基本的であると同時に、非常に難しいことでもあると思わされます。

 

II

ひょっとすると皆さんの中には、〈キリスト教は、暴力沙汰やいじめとは無縁な、心の清い人々の宗教である〉と考えておられる方がいらっしゃるかも知れません。私の講義を聞く若い学生たちの中には、ときどきそんな風に思っておられる方がいます。しかし、先にお読みしたパウロという人物が書いた『コリントの信徒への手紙二』を見ると、当時のキリスト教会の内部にもいろいろな争いがあったことが、すぐ分かります。

 この手紙でパウロは、とりわけ彼の使徒としての資格、つまりキリストの使者としての資格を疑問視する人々に反論しています。この人々は、パウロがコリント教会を設立し、その地を去った後でこの教会に入ってきたのですが、どうやら「推薦状」なるものを持ち歩いていたらしい。そこには、立派な宗教教育を受けているとか、説教が素晴らしくて大勢の人を信仰に導いたとか、あるいは病気を癒す力があるとか、要するにその人物がキリストの使者としてどんなに優れた資質と業績の持主であるかが書いてあったのでしょう。こうした人々と彼らに影響されたコリント教会の人々の一部が、教会の設立者であるパウロについて、「彼は確かに重々しい手紙を書くが、会って見ると何とも貧相な風貌だし、とても偉大な使徒とは言えない」と悪口を言い始めました(10,10を参照)。これに対してパウロは、私は自己推薦する者たちと自分を同列には置きたくない、彼らは仲間どうしで比較し合っているけれど、それは「肉に従って誇る」ことであり、愚かだと言います(10,12; 11,18以下を参照)。 

 こうした論争的な文脈に、さきほどお読みした箇所もあります。状況そのものは極めて現代的でもあると言えるでしょう。人がとりわけその付加価値において評価され、互いに食い合う、そうした状況の中でパウロは、〈キリストの光のもとで人を知ること〉について書いています。いくつか気付いたことをお話します。

 

(1)まずパウロは、「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」(16節)と宣言します。人を知るには、「肉に従って知る」仕方とそうでない仕方があることが、ここから分かります。「肉にしたがって知る」とは、人をその被造物としての能力と限界に従って評価することです。パウロは、このことを自分は今後誰に対してもしない、自分自身に対してもしない、と言うのです。人を〈能力と限界に従って〉評価するとは、常識的に見れば〈あるがままに正当に〉評価するという意味です。しかしこれもまた、能力や業績を自分のために誇るのと根本的に同じ生き方だ、とパウロは言い切るのです。この発言には何かとても強い調子、大切なものを見えなくし、人を切り裂くものに対する深い憤りのようなものが感じられます。いったい何を根拠に、パウロはそう言うのでしょうか。

 

(2)その理由は、パウロが直ちに続けて述べていることから知られます。彼は言います、「肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だからキリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(16-17節)。¾¾ ここから分かるのは、キリストを知る仕方が変わるとき、人を知る仕方も変ることです。つまりパウロは、キリストを「肉によらない」仕方で知るようになってから、人を知る仕方も根本的に変った、と言っているのです。キリストと結ばれる人を、その人の〈能力と限界に従って〉ではなく、むしろ神によって「新しく創造された者」として知るようになったと。これは確かにまったく次元の異なる人の知り方、新しい世界の出現です。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。

 キリストを知る仕方の変化は、パウロの個人史と深く結びついています。キリストを「肉に従って知る」とは、彼を十字架刑に処されることで決定的に挫折した偽メシアとして、つまり神に呪われた者として知ることです。実際、キリスト教徒になる前のパウロは、ナザレのイエスをそのように知っており、それゆえにキリスト教徒を神の名において迫害しました。ところが彼は、迫害行為の最中に「十字架にかけられたままのキリスト」が天から啓示されるという経験をしました。この経験をきっかけに、パウロは突然の回心を遂げ、キリスト教徒になります。神に呪われた者として知っていたキリストは、パウロの経験によれば、実は神の命の現れだったのです。

 呪いの死を死んだイエスを神が自らの命の中に受け容れた、という驚くべき経験をしたパウロは、これまでとは別の仕方で人を知るようになります。イエスの死を通して神の命がこの世界に輝き出で、その結果、被造界は自らの限界を超えるまったく新しい光のもとに立ち現れます。世界は、新しい輝きを獲得します。パウロは、イエスの死に連なることを通して神の命に連なってゆくキリスト者の生き方の中に、つまり外面的に見れば彼らの弱さの中に、そうした神の創造的な働きを実際に経験しているのです。

  もっともこのことは、パウロ自身にとっても、必ずしも一朝一夕に得られた認識ではなかったようです。同じ手紙の後の方でパウロは、自分の身体上の障害を取り除いてくれるよう神に祈り続けた、その苦しみの果てに、次のようなキリストの声を聞いたと言います。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(12,9)。キリスト者の弱さを通して現れる強さは、その人の能力や器の大きさによるものではありません。それは神の命の力強さです。このような人を「新しく創造された者」と言わないで、他になんと言えばよいでしょう。

 

(3)さらに続けて、パウロはこう言います。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(18-19節)。¾¾ ここから分かるのは、キリストの出来事は、神が世界に差し向けた和解の出来事であるということです。和解とは、パウロによれば、何よりも先ず神の行為です。キリストに結びつく者たちとは、この神の行為を受け入れる人のことです。この神は、人間のさまざまな誤りの最終的な責任を当事者である人間に負わせず、むしろ、そうした誤り多き人間にこそ「和解の言葉」を託す。私たちの心の闇を照らし、私たちをその弱さと醜さのままに受け容れ、私たちをその行為の証人として立てる、ということです。したがってパウロの経験によれば、「肉によらない」仕方で自分を知るとは、神によって義とされた罪人として自分を知ることに他なりませんでした。こうした自己理解は、もしかすると、人間が持つことのできる最も誇り高い自己理解であるかも知れません。もっともここでいう「誇り」とは、自分でなく神を誇ること、つまり神に信頼することです。

 

(4)最後にパウロは言います。「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。それは、わたしたちがその方にあって神の義となるためです」(20-21節、最後の一文は新共同訳とは異なる)。¾¾ 明らかにパウロはここで、自分をばかにする人々を含むコリント教会の信徒たちに「願い事」をしています。キリストの使者としてのパウロの努めは、神との和解を受け容れるよう人々に願うことなのです。他者を知るとは、命の根源に気付いてこれを受け容れるよう、その人に願うことであることがここから分かります。それは自分の能力で相手を圧倒したり、立場に物を言わせて指図したり、あるいは自分の利益や欲求不満のはけ口に利用するのとは正反対の行為です。

 

III

〈自分を知るとは、神の命の現れであるキリストの出来事から、神に受け容れられた罪人として自分を知ることであり、他者を知るとは、私を生かす命の力がその人にも及ぶようにと願うことを通して行われる〉というパウロの洞察は、神を見失って久しい現代の私たちには、なかなか理解しにくいかも知れません。しかしそれは、このメッセージが2000年前の異文化に由来するからではありません。それはむしろ、この声が、〈私たちが本当の私と他者に出会うことのできる場所、つまり人間としての私たちの故郷は、私たちの外側にある〉と告げているからです。誰が何を言っても「それはあなた個人の意見でしょう」としか反応できないとき、私たちは私たち自身を超えるものに対する感受性を失っているのではないでしょうか。自分を「肉に従って」知ろうと欲し、その結果、自分も他人も見失っている私たちに、どうして外側にあるものが見えてくるでしょうか。

 

IV

サン=テグジュペリ原作の『星の王子さま』という物語を、皆さんもご存知でしょう。星の王子様は、子供の自分の淋しさを聞いてくれる大人を求めて星々を旅しますが、見つけられませんでした。命令してばかりの王様とか、星の数ばかり数えている実業家とか、そんな大人たちばかりだった。彼はついに地球に来ますが、やはり誰も見つけることができずに、とうとう一人で砂漠に迷い込みます。そしてそこで孤独な飛行士とついに出会うわけです。彼との語らいのあと、星の王子さまは砂漠の毒蛇にかまれて死にます。

 この本を愛読していた、一人の小学5年生の少年が書いた読書感想文の中に、次のような文章があるそうです。「王子さまが、地球でやっと自分の話をりかいしてくれる人を見つけて、いろいろ話をしたあと、『さあ、もう、なんにも思い残すことはない』といったいみがよくわかります。/この本は、じつにさびしい話だったと思います。ぼくは大人になっても、子どもがりかいできるような人間でいたいと思います」。¾¾ 少年の名は、岡真史さんと言います。彼は12才の時、自ら死を選びました。その18年後、お父さんである高史明(こ・さみょん)さんが、亡き息子さんとの苦悶に満ちた対話の歴史をまとめるかたちで、『「ことばの知恵」を超えて』(新泉社1993年)という本を書いておられます。

 「おとなというものは、数学がすきです」、「だけれど、ぼくたちには、ものそのもの、ことそのことが、たいせつですから、もちろん、番号なんか、どうでもいいのです」、「…心でみなくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」という『星の王子さま』からの言葉を引きつつ、高さんは、次のように息子さんに語りかけます。「サン=テグジュペリは、この言葉でもって、大人の知恵とは、ものそのもの、ことそのことが見えない知恵だといってるんだよね。大人の知恵とは、まさに言葉の知恵にほかならないもの。大人は、みんな数学が大好きなんだ。マーちゃん、きみは深い涙をとおして、その知恵の闇を見抜いていたのではなかったか。その知恵は、子どもが理解できなくなってしまう知恵なんだよね。マーちゃん、きみが『星の王子さま』に夢中になったのは、あの王子さまに自分の分身を見るような気がしたからなんだろう。朝鮮人と日本人の間に生まれたわたしたちの最愛の子よ。朝鮮と日本の間を引き裂いていたのも、その大人の知恵の闇なんだよね。きみは、人間の黒闇のただ中にあって、あの本を読み、自分がまた、その黒闇と決して無縁ではないことを感じていたのではなかったか。星の王子さまのように、はるかな空の国に帰ってゆくことを夢見ながらのことだ。/マーちゃん、パパの生が、まるごと人間の黒闇だったことから、きみもまた、人間の黒闇を、そっくり自分の生に引き継ぐことになったに違いないんだよね。パパはいまにして、それを身に凍みて思う」(322頁)。

 ここで「大人の知恵」・「言葉の知恵」と言われている事柄は、パウロの言う「肉に従って人を知る」ことに深くつながると思います。自分と他人の能力と限界を測定することに躍起になっている大人に、どうして子供が理解できるでしょうか。高さんは、「ぼくは大人になっても、子どもがりかいできるような人間でいたいと思います」という息子さんの言葉に込められた、祈りのような願いに支えられて、またとりわけ親鸞の『歎異抄』に導かれつつ、息子さんをもう一度新しく知り、何よりも人間と世界を新しい光のもとで知ることへと進んで行かれたようです。こうした事情は、パウロにも、どこか通じるところがあるように思われます。彼もまた、今回読んだ箇所の直前の文脈で次のように言っていたのでした。

「キリストの愛がわたしたちを駆り立てています。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死に、〔死者たちの中から〕起こされた方のために生きることなのです。」(IIコリント5,14-15)

人を知ること、自分を知り他者を知ること、そして自分や他者と仲直りできること。そのことは私たちが、私たちの知らないところで死んだ命、その死を通して働く命に気づくときに初めて可能になるのでしょう。



The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

Buy Now

bible verses about welcoming immigrants

Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

Blog
About Us
Message
Site Map

Who We AreWhat We EelieveWhat We Do

Terms of UsePrivacy Notice

2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.

Home
Gospel
Question
Blog
Help