I
贈り物は、それを貰うときもするときも、なかなか厄介です。贈り物をする人は、何らかの見返りを期待しているのが普通です。だから私たちは何かを貰うと、すぐにお返しの算段を始めます。「借り」を作って生きること、あるいは逆恨みから「恩知らず」というレッテルを貼られて生きることは不愉快です。いっそ他人にたくさん「貸し」を作ることで、その人々から恩義の返礼を受けつつ悠々と社会生活を送りたいと思います。もっともいつもそう上手くゆくとは限りませんが。他方で、贈り物をする時も注意が必要です。見返りを期待した贈り物は先行投資のようなものですから、相手を正しく「値踏み」する必要があります。先方に「私も見くびられたものだ!」という印象を与えることは、それが本来の意図でない限り、是非とも避けなければなりません。逆に、期待が裏切られたときの、物理的・精神的な損害を考えれば、¾¾ 如何せん「贈り物」に対する損害保険はありませんから ¾¾、大きすぎる贈り物に対しても慎重にならざるを得ません。こうしたことは、組織の中のちょっとしたポストを与えられたり、都合してあげたりする場合にも、しばしば言えるのではないでしょうか。
それでも私たちは、非常に大きな期待を込めて大きな贈り物をしたり、それを受け取ったりすることがあります。親が子どもに差し向ける、広い意味での「贈り物」が、その典型ではないでしょうか。親が大きな期待を込めて子どもを育てる。それは当然のことですが、その期待が子どもにとって逆に大きな重荷になることがあります。贈り物に込められた期待が大きすぎるとき、とりわけそうした期待が身勝手なものであるとき、親の愛情を頼りに自己形成を遂げる他ない子どもたちが晒されるプレッシャーの大きさは、そして愛情を込めて育てた積りの子どもから裏切られた親の失望の大きさは、想像を絶します。親になる者にとっても、子供は「天からの授かり物」であると同時に、大きな課題でもあります。とりわけ子供の教育に関する一切の責任を負わされ、子供の出来で自分の出来を測定される母親が晒される社会的な重圧は、とてつもなく大きい。
何れにせよ、こうしたあり方には微妙な危うさがつきまとっています。どこかが間違っているという印象があります。プレゼントとは本来、何物にも強制されない自発的なもの、好意と善意の自由な表現であるはずです。贈り物と賄賂、愛情と取引の区別がつかない社会は不健康です。正当な評価とコネによる利害調節、当然の義務と自由な贈り物の区別がつかない人間関係は、病んでいます。恩着せがましいプレゼントは、現実と呼ばれるには余りに息苦しい。贈り物は重荷でしかないのでしょうか。見返りを強要しない贈り物、期待と愛情をダメにしてしまわない贈り物に、まだチャンスはあるのでしょうか。
II
さて、先ほどお読みしたイエスの譬え話には、「タラントンのたとえ」という小見出しがついています。「タラントン」とは当時あったお金の単位の中で、最大のものであったようです。もともと古代の通貨単位であったこの言葉は、しかし、イエスの譬えが有名になったせいで、「タレント」という現代語になって残っています。ある辞書によりますと、それは「発展させて世のために役に立てるように神から委ねられた素質・才能」という意味だそうです(研究社『英和大辞典』より)。
「あぁ、私にもっと才能があったら!」、「タレントのある人が羨ましい!」、「子供のタレントを伸ばしてやりたい」¾¾ こうした願いとも嘆きともつかぬ言葉を、私たちはときどき発します。しかし、こうした言葉遣いの元になった当のイエスの譬えを読むと、神からタレントを委ねられるというのは、なかなか大変なことのようです。「神がプレゼントとして与える才能を有効に発揮しない者は、地獄に落ちるぞ!」とでも言わんばかりですから。これでは尻込みしたくなります。しかしこの譬えは、その根本において、〈与えられた才能を発揮した成果の大小に従って、神に誉められたり罰せられたりする〉という意味の、一種の「能力主義」あるいは「業績主義」をよしとするものなのでしょうか。そうではない、と私は思います。その訳をお話しましょう。
III
この譬えには、ルカ福音書19,12-27に並行記事があります。両者は明らかに同じ話ですが、よく見るといろいろと違っています。つまり二つの並行記事は、同じ話の二つのヴァリエーションです。そして、その基本構造は次ぎのようなものであると思います。
神の国は、次の話のようである。
外国に旅立とうとしたある人が、僕たちを呼んで、各人に一タラントンを託した。後に僕たちの主人は帰ってきて、彼らと清算した。
第一の者が来て言った、「ご主人様、あなたの一タラントンで十タラントン儲かりました」。主人は彼に言った、「よくやった! お前はよい僕だ。お前は僅かなものに忠実であったから、多くのものを任せよう」。第二の僕が来て言った、「ご主人様、あなたの一タラントンで五タラントン儲かりました」。主人は彼に言った、「よくやった! お前はよい僕だ。お前は僅かなものに忠実であったから、多くのものを任せよう」。
そして第三の僕が来て言った、「ご主人様、ここにあなたの一タラントンがあります。私が地中に埋めておいたのです。私はあなたを恐れておりました。あなたは厳しいお方で、蒔かなかったところから刈り取り、投資しなかったところから取立てなさる方だからです」。すると主人は彼に言った。「お前は悪い僕だ。お前は、私が蒔かなかったところから刈り取り、投資しなかったところから取立てると知っていたのか。ならばお前は、私の金を銀行に預けておくべきであったのだ。そうすれば私は、戻ってきたときに、タラントンを利子と共に受けとっていたであろうに。さあお前たち、この者から一タラントンを取り、十タラントン持っている者に与えよ」。
このような物語の基本構造から、幾つかのことが読み取れます。
先ず、ここに描かれているのは、まっとうな人間の世界ではありません。金の額が半端でないからです。一タラントンは6000日分の日当に相当するそうです。これをほぼ20年分の給料と考えますと、一年で500万円稼ぐとしても1億円分のプレゼントです。そこからさらに10倍の儲けを出すには、当時の世界では、おそらく海上貿易などの危険で投機的な経済活動を行う以外に手がありません。この気絶しそうな大金を前に、主人は「お前は僅かなものに忠実であった」と言ってのけています。これはもう庶民はおろか、普通の銀行員たちの話でもなく、むしろサラ金の大親分を中心としたヤクザ者の世界の話です。
次ぎに気付かされるのは、三人の僕たちが同じ額の元手を貰い、儲けた僕たちの儲け額はそれぞれに異なるけれど、同じように主人から誉められていることです。この主人は、儲けの大小に応じて褒美に差をつけません(ルカ版の主人はそうする)。つまり能力の差は、決定的な要素ではありません。
さて第三の僕は、貰った金を土に埋めて保管した後に、そのまま主人に返却しています。これは古代世界では、他人の財産を保管する上で、法的に何ら問題のない正当な行為でした(ルカ版の「布に包む」保管法は無責任)。主人はその極めて真面目な僕を、「お前は悪い僕だ」とこき下ろしています。いったい全体この主人は、どういう人物なのでしょうか?
第三の僕の考えでは、それは、「蒔かないところから刈り取る」ような金の亡者、他人を情け容赦なく搾取する非人間です。主人は、これに対して「だったらどうして銀行に預けなかったのか」と問い返しています。これは、やはり〈金の亡者〉の発言のように聞こえる。しかし、彼はそれから何をするでしょうか。主人は、その返却された金を自分の懐に収める代わりに、十タラントン持っている者に与えてしまうのです。ついでに言うと、僕たちが持ってきた儲けを主人が「ピンはね」した形跡もありません。本当にこの主人は「厳しい」人なのでしょうか。否、むしろ信じられないほど気前がよいのではないでしょうか。そもそも彼は、気前よく僕たちに金を渡し、彼らが「儲かりました」と金を持ってくると、その大小にかかわらず「よくやった!」と誉めて、さらに与えています。つまり自分の懐を肥やすためではなく、僕たちのボロ儲けを共に喜ぶために、彼は金を与えているのです。
こうして見ると、第三の僕が持っていた主人のイメージは、根本的に間違っていることが分かります。この僕は真面目な人間ではありましたが、自分の主人を理解していなかったのです。「銀行に預けておけば利子を取れた」という主人の発言は、それとは正反対の発言の直前に置かれることで、〈あなたは金の亡者だ〉という僕の思い込みが完全な勘違いであることを際立たせるための、強烈な「皮肉」になっています。
IV
イエスの譬えに描かれた世界は、「見返り」とか「面子」とかに汲々としている私たちの日常的な倫理の世界を、また〈ただほど高い物はない〉という諺に要約されるような私たちの生活原則を、軽々と飛び越えています。この世界のルールはただ一つ。すなわち、気前のよい主人からプレゼントされたら、それを重荷に思わないで、どんどん使うことです。重荷に思う必要がない理由は、この世界の住人を代表する、主人の気前よい振舞いに自ずと示されています。この主人に限って、〈失敗したらどうしよう〉という「恐れ」は、本質的に場違いなのです。
ところでイエスの周りにいたのは、必ずしも裕福な人々ばかりではありませんでした。むしろ無償の贈り物など一度も貰ったこともない人たち、それどころか負債だらけの人生を生きる人たちの方が多かった。彼らが実際に経験する主人たちは、おそらく第三の僕が持っていたイメージに近かったでしょう。そのような人々に、イエスは夢物語のような法外な世界の出来事を語って聞かせます。しかしこの譬えは、一時の気晴らしにしかならない笑い話以上のものです。そこには、もっと大きな力が備わっている。この物語は、利子付きの贈り物に対する「恐れ」に捕らわれた私たちを、深いところで解放してくれます。惜しみなく、豪快に与える者に対する信頼を、私たちの中に呼び起こしてくれるのです。
このような主人の姿は、イエスが宣教した「父なる近き神」のイメージの一部であるように私には感じられます。実際イエスは、憐れみ深い神への信頼が人々の間に育つよう、懸命に働きました。社会からつまはじきにされていた人々と食事を共にし、病人を癒し、悪霊を追い出し、村から村へと歩き続けました。食べ物と宿を、行く先々で恵んで貰いながら。そして「今日食べるパンを私たちに与えてください」と神に祈るよう、弟子たちに教えました。後に原始キリスト教を生きた人々は、このイエスこそが、神が世界に与えたプレゼントであった、という認識に到達しました。「神はこの世界を、その独り子なる子を与えたほどに愛した」(ヨハネ3,16)。私たちに与えられたタラントとは、実はそのような愛の神への信仰に他なりません。マタイ福音書やルカ福音書の記者が、それぞれの仕方で、託された金を用いなかった僕に対する処罰のモチーフを強化している元来の理由は、〈神からのプレゼントであるイエス・キリストに信頼を寄せない〉という反応の、信じられないほどの愚かさを、本当の悪として描き出すことにあったと思われます。
豪快に与える者に対する正しい反応は、与えられたものを豪快に使うことです。同様に、惜しみなく愛する者に対する正しい反応は、ただでそれを受け取ることです。イエス・キリストへの信仰は、この単純な真理の結晶的な表現です。そしてそのとき初めて、私たちは自由な者として、見返りでなく喜びを期待して、不安に食い破られることのない希望に基づいて、他者に贈り物をすること、つまり他者を愛することも、ちょっぴりできるようになるのではないでしょうか。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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