新しいエルサレム」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

 ヨハネ黙示録21章1-8節は「新しい天と新しい地について語っている。慰め深く、力強い言葉だ。今日の9節以下では、その「新天新地の様子がさらに具体的に「新しいエルサレムという形で展開される。―― 七人の天使の中の一人がヨハネを大きな高い山の上に連れて行き、「聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来る(10)のを見せる。

 その都は、一辺が12,000スタディオン (2,200km)というから、ほぼ日本全土に匹敵するほどの広さだ。この都には「高い大きな城壁と、12の「門と、その「土台があり、それらはすべて宝石で飾られ(18-21)、「神の栄光に輝いていた(11)。この描写には辻褄の合わないところがあるが、今は細かいことにはこだわらないことにしよう。要するにヨハネは、「新しいエルサレムは、イスラエルのすべての民が神の栄光の光に照らされて生きて行ける町だと言いたかったのであろう。

 ところで、黙示録のこの箇所は、全体としてエゼキエル書40章以下の影響を受けている。だから、それと重ね合わせて読んでみたい。先ず、エゼキエル書とはいかなる書物かということについて大雑把に説明しよう。

 紀元前587年に、南王国ユダはバビロニアのネブカドレツアル王によって滅ぼされ、美しいエルサレムの町は壮麗を極めた神殿もろとも破壊されて、主だった人々はバビロニアへ強制連行された。これを「バビロニア捕囚と呼ぶ。このとき、エゼキエルは捕囚民と共にバビロニアに移住し、ケバル川のほとりで祭司・預言者として活動した。その彼が、捕囚となってから25年目に「主の手によってイスラエルに連れて行かれる。そして、「非常に高い山の上に下ろされて、そこから都エルサレムを、特に神殿の幻を見るのである(エゼキエル書40章1~2節)。黙示録21章は、ここを下敷きとして書かれたと言われている。

 バビロニアで捕囚として苦労していたエゼキエルと、ローマ帝国の迫害下でパトモス島に流され、前途に不安を感じていたヨハネ。この二人が新しいエルサレムの幻を見たということ。このことは、混迷の現代に生きる我々にも訴えるものを持っているのではないか。

 エゼキエルは、エルサレムの陥落と神殿の破壊・略奪という事実を経験した。これは、当時のユダヤ人にとっては、単なる敗戦以上の苦しみを意味した。何故なら、「自分たちが信じてきた神ヤハウエよりも、バビロンの神々の方が力強く、頼りになるのではないかという疑いと動揺が人々の間に広がったからである。自らの拠り所であった土台が揺らぐことほど辛いことはない。

 私は15歳の時に、それまで自分が拠り頼んできた思想的土台が根底から崩されるという経験をした。「日本は神の国だから決して負けないと信じ込まされていた私は、敗戦の現実に直面し、また、指導者たちの退廃をこの目で見て、絶望し自信も失った。皆さんの中にも同じ経験をされた人がいるのではないか。

 捕囚の時代のユダヤ人も、暗澹とした気持ちになったであろう。ダビデ王国が滅亡し、ソロモンの神殿も徹底的に破壊された。その結果として自分たちは「捕囚とされ、神の恵みから切り離されたかのように遠く「死の陰の地で生きねばならない。

 だが、それ以上に先祖代々の神ヤハウエへの信頼を失ったということがやりきれない。エリー・ヴィーゼルがアウシュヴィッツ強制収容所に入れられた時、「神は死んだと感じたという。同じような「喪失経験である。

 しかし、エゼキエルはこれら捕囚の人々と同じ所に身を置き、彼らと悩み・苦しみを共有しながら、たゆまずに「ヤハウエはあなたがたと共におられると語り続けたのであった。ヤハウエは破壊された神殿と共に滅びるような存在ではない。神は生きていて、捕囚のあなたがたの所へも来られ、そして守られる!

 「ヤハウエという神名は、「ある(ハーヤー)というbe動詞から来たと言われる。モーセがホレブの山で神の顕現に接したとき、神はご自身の名を明かして、「わたしはある、わたしはあるという者だ(出エジプト記3,14)と言われた。ユダヤ教の哲学者マルチン・ブーバーはこれを解釈して、「あなたがどこにいようとも、そこに神はおられるという意味だと言うが、まことにその通りだ。

 旧約の詩人も歌っているように(詩139,8-10)、「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。正にこのことを、エゼキエルは捕囚民の中で語ったのだ。神は遠く離れた捕囚の地でも、あなたがたと共におられる! この信仰が、「新しいエルサレムの幻を生んだのであろう。

 ローマ帝国の迫害の下にあったヨハネも同じである。彼も、不正不義・権謀術策・憎しみ・報復・流血など、もろもろの悪が支配する地上の都「大淫婦バビロン(17-18章)、つまりローマの現実を見た。その中で前途に殆ど絶望した。これは地上世界の現実であって、その悲惨は今日に至るまで変わらない。

 しかしヨハネは、エゼキエルと同じように、この古い世界はやがて必ず革まると信じた。古い世界は消え去って、新しいエルサレムが来る。二人は、この幻を見たのだ。40年前にキング牧師が「私には夢があると言ったように。この新しいエルサレムは、人間の力や知恵で実現できるようなものではない。純潔な花嫁のような姿で「天から下ってくる、つまり、神の憐れみがもたらす新しい現実に他ならない。

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