私たちの内に住み給う神」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「聖霊が降るとはどういうことだろうか? 使徒言行録にはこう記されている。

「五旬祭の日(イエスの復活後50日目)が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、…ほかの国々の言葉で語り出した」(2,1-4)。

これは確かに不思議な出来事だが、よく読んでみると、それほど「異常な現象」というわけではない。一同がいろいろな国の言葉で話し始めたというのも、わけの分からない言葉を口走ったのではなく、どんな人にも意味がはっきり伝わる言葉で「神の偉大な業を」(11)語ったのである。その代表が「ペトロの説教」(14-35)であった。

「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ(37)、3000人が洗礼を受けた。「使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われ(43)、すべての人に畏敬の念が生じた。一方、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」(44-47)。これが、聖霊が降ったことによって起こった結果である。一言で言えば、弟子たちは心を一つにした。神の偉大な業について、神の義と愛について、人類に与えられた救いについて、人の心を動かすような真実をもって語った。そして、共に生きる生活を始めた、ということであろう。

心の通い合う生活と真実な言葉!こういうことを、我々はどれほど渇望していることだろう。イラク戦争の時も感じたし、北朝鮮をめぐる問題でも痛感するのだが、今の世界では互いに話が通じない。言葉が混乱している。暴力的な言葉・偽りの言葉・空疎な言葉が飛び交っている。これは人類の思い上がり・驕り高ぶりのゆえである。「バベルの塔」(創世記11,1-7)の話には、単なる昔話にはない現実味がある。

先週、中東和平のための三者会談が行われて、我々はその進展を心から祈っているが、心のどこかに「今回もうまく行かないのではないか」という疑念が残っているのは、政治家の言葉に何度も裏切られてきた苦い経験があるからである。そのために、我々の世界は憎しみと暴力の連鎖から逃れられない。

しかし、これは初代教会の頃も同じであった。この世は、苦しむ人々と共に生き・真実な言葉を語ったイエスを抹殺してしまったではないか。この記憶は、主が復活された後でも依然として弟子たちの心を苦しめていたであろう。

だが、その弟子たちの中に聖霊が降ったのである。聖霊とは、「我々の内に住み給う神(バルト)である。イエスは、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ福音書14,23)と言われた。神はただ高い天に在すだけではない。我々の中にも住み、我々を内側から動かし、我々の心の目を開き、孤独の壁を破って他者と共に生きることを可能にして下さる。神のこの在り方を聖霊というのである。

この聖霊が2000年前、弟子たちに降った。それが再び現実となることを信じて祈りたい。造り主なる御霊よ、来たり給え!

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Emmanuel

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