一昨年も昨年も、敗戦記念日の頃、主として平和の問題に関連して今日と同じテキストを用いて説教したが、今年は少し違った観点から考えてみたい。
43節でイエスは、先ず「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」と言った後で、「しかし」と続けて、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」(44) という、正反対の戒めを与えている。
「あなたがたも聞いているとおり」という言い方は、これ以前も何度か繰り返された。それは、この話を聞くすべての人が「社会的常識」として熟知している掟が存在することを示すものだ。「殺すな」(21)、「姦淫するな」(27)、「偽りの誓いを立てるな」(33)、「目には目を、歯には歯を」(38)などがそれで、これらはすべて、旧約聖書、ないしは「十戒」に出てくる戒めである。
ところが、「隣人を愛し、敵を憎め」という二重の戒めは、旧約聖書にはない。前半の「隣人を愛しなさい」は、レビ記19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」から来たことは明らかだが、後半の「敵を憎め」という戒めはどこにもない。これは恐らく、ユダヤ人社会で一般に通用していた「道徳」、もしくは不文律のようなものではないだろうか。
「隣人」とは、信仰を同じくする共同体の「同胞」のことである。これに反して「敵」とは、共同体を脅かす外部の危険な存在、その意味で「自分を迫害する者」(44)のことだろう。すると、この二重の戒めは、「隣人、つまり同胞は愛せよ。だが敵、つまり外部の危険な存在は憎め」という意味になる。これは理解できないことではない。どの民族にも共通する自然の民族感情であり、その意味では普遍的な掟と言っていい。
ところがイエスは、あろうことか、この普遍的な掟に対して異議を申し立てる。そんなことをすれば社会の爪はじきに遭うことは、目に見えていた。「言論の自由」が憲法で保証されている筈の我が国でも、「日の丸」・「君が代」・「歴史教科書」をめぐって異議を申し立てたりすると、「非国民」呼ばわりされかねない風潮があるくらいだ。ましてイエスは、古代のユダヤで、敢えてそのようなことを公然と語ったのである。これがどんなに危険な発言であるかは容易に推察できよう。しかも、彼は、この普遍的な掟はやがて必ず克服されるということ、従って、本質的に「過去の」掟であるということを洞察していた。驚くべきことではないか。
20世紀は「戦争の世紀」だったと言われる。その中で我々が学んだ最大の教訓の一つは、「現代戦には勝者も敗者もない」ということではなかったか。分かれ争うことを続けている限り、人類は遂に、共倒れする他はないだろう。この予感は、核兵器の出現で現実となった。やっと20世紀の最後の10年になって、人類はこの愚かさに気づいたようだ。「冷戦構造」の崩壊は、その一つの現われである。相変わらず古臭い「国家主義的な」考えを拠り所とする政治家や軍人たちは別として、世界の歴史は大筋で「共に生きる」知恵を求めて動いている。欧州ではEUができて、既に統一通貨を持つ所まで進んでいるし、アジアでも、朝鮮半島に和解の兆しが出てきた。
だが、イエスは既に2000年前に、この方向を先取りしているのである。彼は、「隣人(同胞)を愛し、敵(外部の危険な存在)を憎む」という掟が本質的に過去の時代のものであることを洞察した。だから、それは克服しなければならない。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という言葉には、そのような意味が込められているのである。これは、人類の将来を導く新しい倫理なのだ。
その際、彼は、天地万物を創造した「天の父」なる神に目を向けている。そして、こう言う。「あなたがたの天の父は…悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(45)。我々は常に、自分たちの小っぽけな、「笑うべき正義」(パスカル)に基づいて敵・味方を区別しているが、万物を創造し・それらに命を与えた大いなる神は、これを嘲笑うかのように、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる」というのである。
「共に生きる」。これこそ神の意志である。そして21世紀は、間違いなく、「共生」を目指す世紀となるだろう。ローマ・クラブ『第一次地球革命』(1992年)は、人類が生き残るためには「価値観を変える」必要があると言い、「エゴイズムのおかげで、人類という種は、長い進化の過程を生き抜いてきた。…しかし、いま大切なのは、自分の命だけを守ればよいという原始的エゴイズムから、いかにして脱却するかである」(167頁)と述べた。多くの思想家が指摘することであるが、今や、エゴイズムは人類の将来を危うくする元凶であることが明らかになった。過去の時代の価値観は変えねばならない。そしてそれは、イエスの教えによれば、「敵を愛する」ことに他ならないのである。
48節の「完全な」という言葉は、元のギリシャ語では「テレイオス」である。これは、「道徳的な完全性」のことよりも、むしろ、「天の父なる神が御自分の造られたすべての被造物を愛して、生命の保持のために配慮しておられる」という信仰に支えられた全体的な認識、さらに言えば、人類全体いや地球全体を視野に入れた全体的な認識のことであろう。そのような新しい価値観を身につけよ、という意味ではないか。この大きな観点から、我々は隣人(同胞)だけではなく、従来「敵」と見なされてきた人々をも愛さねばならない。そこから、世界を見、世界の中に生きている人間を見なければならない。その時初めて、我々は「天の父の子となる」(45)のである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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