「主よ、献げます」ヨハネ12:1−8 中村吉基

イザヤ書43:16−21;ヨハネによる福音書12:1−8

イザヤ書43:16−21;ヨハネによる福音書12:1−8

受難節には普段以上に神のみ言葉に耳を傾けることが勧められています。神のみ言葉は私たちには余りあるほど語られています。主イエスのみ教えでは私たちを愛してくださっている神に立ち返る「悔い改め」が説かれています。そしてみ言葉をただ聴くだけではありません。神のみ言葉を私たちの生活のただ中で人生の手引きにして、行動を起こすことが求められています。深い祈りと共に私たちの回心がなければ信仰を成長させることはできないのです。

今日の聖書の箇所、ヨハネによる福音書の直前の部分になりますが、11章の終わりのところで、イエスを憎む祭司長たちや律法学者たちは何とか殺そうと企みます。いよいよそれを実行する時が来たとばかりに、彼らは示し合わせていました。主イエスは人々の人気の的でした。さまざまなところでイエスのよい評判を耳にするたびに、ユダヤ教の指導者たちは苦虫を潰したような表情をしたことでしょう。ますます主イエスに憎悪を抱いていきました。なんとかして早いうちにあのイエスを逮捕して殺害しようと目論み始めるのです。その際のことをヨハネはこのように記しております。

「イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された」(11:54)。

この時すでにイエスは逮捕されようとしておりました(同57節)。今日の箇所はその後から始まるのですが、イエス逮捕の矢先に、ベタニアのラザロたちの家族から招待されるのです。ラザロの回復の祝いをするというのです。

実は民衆からイエスが羨望の的になった一つのことは、死んだラザロの復活の出来事でした。それだけではありませんが、ラザロを通して顕された神の奇跡は、ますます彼の評判を高めていきました。これから主イエスの身に何が起こるかわからないという予断の許さない状況でしたが、主は招きに応えて、敢えてエルサレムのはずれにあるベタニヤ村に赴いたのです。

そのようにしてイエスに刻々と危機が迫るような時に、マリアが300デナリオン(1デナリオンは当時の平均的な1日の賃金に相当するので約10か月分の賃金)以上の価値があると言われる香油を1リトラ(約326グラム)、イエスに注ぐという驚くべき行為がなされました。ナルドの香油というのは、ヒマラヤ原産の植物の根から作られ、インド経由で輸入される貴重品でした。当事のユダヤでは、客人をもてなすために用いられ、それはほんの数滴の香油をかけるという習慣があったようで、旅の疲れを癒す良い香りがしたものなのでしょう。今で言うアロマオイルのようなものであったと考えて良いでしょう。どうしてマリアがそのような高価な香油を持っていたのかは不明です。もしかしたら彼女の全財産であったかもしれません。

しかし、主イエスの弟子の一人、イスカリオテのユダは、マリアのした行為に憤慨したのです。そしてこのように言いました。「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(5)。

このイエスがベタニアで香油を注がれるという出来事については、4つの福音書の全てが記しています。マルコには「そこにいた人の何人かが」と記されており、またマタイのほうでは憤慨したのは「弟子たち」だと証言されており、複数いたと伝えております。しかしヨハネによる福音書ではイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダがそうしたのだと記されてあります。ヨハネによる福音書は興味深くユダの言動としてこれを記しているわけですが、その心情まで6節に記します。

「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」。

ユダが憤慨したのは、常識からしたら当然のことだったかもしれません。

しかし、主イエスは違いました。7節をごらんください。

「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない」。

なぜマリアはこのような思い切った行動に出たのでしょうか?

何かこのようなことをすれば自分に良いことがあると思ったのでしょうか?

マリアの心情のこともまたこの箇所では言及されていません。しかし、大勢の主イエスの信奉者たちが見守る中で、マリアだけが「出過ぎた行為」をすれば周囲の人びとには受け入れられないはずですし、何か打算的な考えがあったとも思えないのです。

ではどうして彼女は「できるかぎりのことを」尽くしたのでしょうか? 彼女はあのマルタの妹のマリア、そのきょうだいラザロは主イエスによって甦らされました。ラザロのいのちを救ってくれた主イエスへの感謝でもあったのでしょうか。主イエスはもう何度もこの家を訪ねてきていました。

ベタニアというのはエルサレムに近い村でした。この地名の由来は「貧しい人の家」という意味で、一説によればここには貧しい人や病を負った人たちがエルサレムから追われるようにして住んでいたというのです。マルコによる福音書の記述には「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき」(マルコ14:3)ともあります。マリアはそこで主イエスの姿に神の愛を見ました。主イエスこそ真の救い主であると確信したのです。そのことが彼女を駆り立てたのです。

先ほども申しましたように、マリアがどうしてこのような非常に高価な香油を持っていたのかということについて今日の箇所には記しておりません。けれども私はここを読むときにそのようなことはどうでもよいことなのかもしれないと思いました。愛の行為を行うときに、いちいちそれに計画性があるのだろうか、と考えたからです。愛は無計画のうちに行われるのかもしれません。そしてこのマリアの行為を「聖なる浪費」だといった人がいるのです! 自分の思いを、感謝の思いを一心に、この主イエスに伝えたいだけなのだということです。

また、彼女はイエスの足に香油を塗っただけではなく、それを自分の髪で「ぬぐった」とも書かれています。先週はアカデミー賞の授賞式で、髪の毛のことが話題となりましたけれども、今も昔も髪の毛は人間の大切な一部分です。ましてや人の足を髪で拭うなどということも驚くべき行為です。いったんラザロが死んだ時、主イエスは涙を流してくださったとヨハネの11章は記録しています。そのようにはらわたがねじれるほどにまでマリアたちの悲しみに入り込んできてくださった主のお心に報いたい、マリアはその一心であったのです。

主イエスは7節で「この人のするままにさせておきなさい。私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」と仰せになりました。これはマリアに対しての最大の賛辞を贈っていると言ってよいと思います。この当時、慈善の行いの中で「死者の埋葬」は最も尊いことと考えられていました。主イエスはこれから十字架での死に赴きます。マリアが主イエスにした行為は主イエスの埋葬の準備のようなものでした。

今日の箇所を通して私たちはマリアの行いに触れました。この礼拝を通して、私たち一人ひとりが「今、ここで」主イエスにできるかぎりのことをお献げするとしたならば何ができるのか、を考え、行動することを神は待っておられるのです。

皆さんにとっての「ナルドの香油」とは何でしょうか?

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Emmanuel

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