本日発売された『舟の右側』2023年12月号に「『イスラエル』とは何か? 聖書のグランド・ナラティヴからの考察」と題した記事を書きました。
この記事はイスラエルとハマスの軍事衝突を受けて書かれたものではありますが、直接的に現在のイスラエル/中東問題を論じたものではありません。むしろ、聖書のグランドナラティヴの中で「イスラエル」という存在がどのような役割を果たしてきたのか、という点に絞って書かれています。しかし、結論部分で私はこう書きました。
以上、聖書のグランドナラティヴにおけるイスラエルの意義を見てきました。歴史を通して展開する神の救いのご計画にあって、イスラエルは中心的な役割を果たしています。全被造物世界を回復するという神の最終目標の実現のために、全人類に神の祝福を取り次ぐという大切な使命がイスラエルには与えられていました。そして罪のために機能不全に陥っていたイスラエルを回復し、再び本来の使命を果たすことができるようにするために来てくださったのが、メシアであるイエスでした。イエスの十字架と復活によってイスラエルは回復し、そこにイエスを主と信じる異邦人も接ぎ木されてきました。
したがって、聖書における「イスラエル」の概念は、特定の民族を指す用語から、メシアであるイエスを主と戴き、神の祝福を世界に広げていく多民族的信仰共同体である教会へと発展したと言えます。教会を旧約のイスラエルと無関係なものと考えることも、聖書のイスラエルを現代のイスラエル国を安易に同一視することも、どちらも間違っています。イスラエルの物語は、現在も進行中の私たちの物語なのです。
誤解を恐れずに単純化して言うなら、教会とイスラエルを無関係のものとして考える立場は反ユダヤ主義に反映され、聖書のイスラエルと現在のイスラエルを単純に同一視する考え方はキリスト教シオニズムに反映されていると思います。
たとえばアメリカ最大のプロテスタント教派である南部バプテスト連盟は、ハマスによる最初の攻撃があった11月7日の4日後には早くも次のようなイスラエル支持の声明を出しており、2000人以上もの人々が署名しています。
この声明には、反シオニズムと反ユダヤ主義の混同や、ローマ書13章のナイーヴな解釈に基づく正戦論の主張など、個人的に同意しかねる内容がいろいろ含まれていますが、特に本稿との関連で注目したいのは次の一節です。
イスラエルと教会に関する神学的見解は異なるとしても、われわれはユダヤ民族に対する攻撃をとりわけ遺憾なものとする点において一致するものである。なぜなら、彼らは神の民として召し出されたアブラハムの時代から、周囲の民族によってしばしば攻撃の的とされてきたからである(創世記12:1-3)
ここで声明ははっきりと、現代のイスラエル国(声明で使われている表現は「ユダヤ民族」ですが、文脈からしてこれがイスラエル国とほぼ同義で使われていることは明らかです)を旧約聖書における神の民イスラエルと同一視していますが、上で述べたようにこれは聖書的イスラエルについての正しい理解に基づいているとは思えません。そもそも声明は別の箇所で中東に住むすべての人の尊厳と人間性を尊重し、彼らに対する神の愛を認めているのですから、ここでイスラエルに対する攻撃だけをとりたてて強調する必要はないと思います。ハマスによるテロ攻撃を遺憾に思うなら、イスラエルによって抑圧され、今回の大規模なガザ侵攻で犠牲になっているパレスチナの人々の苦しみに対しても同じ程度に悲しみ抗議すべきでしょう。
聖書のイスラエルと現代のイスラエル国との同一視に関連して、「イスラエルを祝福する者は祝福される」という理由でイスラエル支持を表明するクリスチャンがいます。これは創世記12章3節で神がアブラハムに語った「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」というテクストに基づいています。このような考え方は海外では「祝福の神学(blessings theology)」と呼ばれることもあるようですが、日本人クリスチャンの発言としても見かけることがあります。上で引用した声明にはこの立場が明示されているわけではありませんが、まさにこの箇所が引用されていることからも、このような理解が暗黙の内に前提されているのかもしれません。
しかし、この聖書テクストは、クリスチャンはイスラエル国の行動は無条件に何でも支持すべきだと語っているのでしょうか?
聖書のイスラエルと現代のイスラエル国を同一視することの問題点はすでに述べてきたとおりですが、たとえ百歩譲って現行のイスラエル国が聖書にルーツをもつ神の民そのものだとしても(私はそうは考えていませんが)、イスラエルのなすことが無条件で神の承認を受けた正しい行為であるとは決して言えないのです。
『舟の右側』の記事でも書いたように、イスラエルが神の選びの民であることは、彼らが神の前に道徳的責任を免除されるということではありません。むしろ、彼らは聖なる神の道徳的基準に従って生きることを求められ、それに反する時には神はイスラエルを厳しく裁かれました。じっさい、聖書に記されているイスラエルの歴史は神に対する反抗の連続だったのです。
もちろん、神はアブラハムに対する永遠の祝福の約束のゆえに、イスラエルを見捨てることは決してなさいません。けれどもそれは彼らの多くの過ちにもかかわらず見捨てないということであって、彼らのやることなすことすべてにお墨付きを与えているわけではないのです。イスラエルは諸国民を祝福するために召されたのであって、のろいをもたらすためではありません。(そしてこれは、記事で書いたようにキリスト教会を回復し拡張したイスラエルと捉える場合にも言えることです。)
従って、「祝福の神学」を本気で実践しようとするのであれば、イスラエルの行動の是非を冷静に判断し、彼らが誤ったこと(たとえばパレスチナ人を差別・抑圧したり、民間人を虐殺したりすること)をしているならば、その過ちを指摘して正してあげることこそ、ほんとうの意味で彼らを祝福することになるのではないかと思います。
さらに言うならば、こういった個別のことがらについての善悪の判断を抜きにして、機械的にイスラエルを祝福するならば祝福される(そしてその裏返しとして、イスラエルをのろえばのろわれる)という考えは魔術的なものであり、道徳的感覚を麻痺させる危険なものであると考えます。それが神の御心であるとは私には思えません。
神はすべての人間を愛しておられ、人種や国籍や思想信条に関わりなく、すべての人々が安全で喜びに満ちたいのちを生きることを望んでおられると私は信じます。中東に恒久的な平和が訪れることを願ってやみません。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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