赦しの力”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、
“赦しの力”について考えてみました。赦しということは聖書が取り扱う重要なテーマです。聖書は、この赦しという重大なテーマを二つの意味で取り扱っています。一つは、人間の罪に対する神の赦し、そしてもう一つは、人間同士の赦し合いということです。この赦しが聖書の重大なテーマである理由は、その人の罪に対する神の赦しがなければ、その人が永遠に滅んでしまうからであり、また、この世の人生で、人が人を赦すことができなければ、その人の人生を台無しにしてしまうからです。誰かを憎み続けるということは、大変なエネルギーのいることです。絶対に赦さないと思うことは、相手を縛り付けることでもありますが、それ以上に自分自身の心を憎しみという感情に縛り付けてしまいます。ですから、どちらが正しいかの問題ではなく、自分の心が苦々しい思いから解放されるために、まず相手を赦すということは非常に大切なことなのです。 赦し合うということは、神の命令です。しかし赦しが神の命令であるということは、神が赦す心を与えて下さるということです。私たちは自分の力で人を赦せるものではありません。赦せない人を赦す力は神から与えられるものです。神がキリストによって私たちを赦して下さった、その赦しの大きさを味わった者は、赦せなかった人を赦せるようになるのです。またイエス様を信じる信仰によって私たちの内に内住される聖霊の働きによって、人を赦す力が与えられるのです。朝鮮戦争のころ、韓国のゲドン教会は、七人の長老のうちの四人が殉教されたそうです。その中の、カン・ドクヘという長老は、共産主義者に捕らえられて、木にぶら下げられ、目をえぐり取られて、体中を殴られました。しかし、カン長老は目から血を流しながらも神様を賛美し神様をほめたたえたので、共産軍は銃でカン長老の顎をなぐり、すべての歯が折れてしまい、顎も砕かれ、その場で殺してしまいました。やがて、韓国の軍隊が進撃し、共産軍は捕らえられました。カン長老に関する話を聞いた韓国の軍隊が、カン長老の息子を呼んで、「さう、ここにあなたのお父さんを残酷に殺した敵がいますから、あなたの思い通りしなさい」と拳銃を渡しました。その息子は共産軍の兵士たちを見た瞬間、お父さんが苦しんで死んでいく姿を思い浮かべ、心が怒りで一杯になりました。そこで彼は、祈りが必要だと思い、しばらく祈りました。彼は、怖くて震えている共産軍の兵士たちに近づきました。そして、こう言ったのです。「あなたは私のお父さんを殺した敵ですが、私のお父さんは、あなたたちを赦して、祝福して、この世を去りました。私は、そのお父さんの志に従い、あなたたちを赦して愛します」 これが神からいただく赦しの力です。彼には敵討ちをするチャンスが与えられたのですが、神様の愛によってその権利を放棄し、敵を赦したのです。このように赦しというのは、自分に害を加えた人に報復する権利を放棄し、その人を愛することです。そうすることで、すべての怒りと、憎しみと、苦々しい思いから解放されるのです。カマリエル・べイリは「最も多く赦す人が多く赦される」と言いました。アブラハム・リンカーンは「私は毎日赦す心で生きる」と言いました。ですから、私たちは赦すことを身につけて生活すべきです。私たちは毎日赦し、また赦されて暮すべきなのです。私たちは完全ではありません。完全な人は誰もいません。すべての人が罪を犯し、神の栄光を受けられなくなったのです。ですから、私たちには救い主イエス・キリストによる罪の赦しが必要なのです。そして、その大きな罪が赦される経験をした者は、絶えず、赦しによって新しい出発ができるのです。赦さなければ、憎しみに心が束縛されて、新しい出発ができません。簡単に赦せる人を赦すのは、本当の赦しではありません。キリストの恵みによって赦された経験をした人だけが、赦せなかった人を赦すことができるのです。普通ならば赦せる筈のない人を、心から赦すことができるのです。それが本当の赦しであり、十字架の恵みです。
今日の一言: 赦しはあなたを自由にする平安鶴田健次
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