“心の適正距離”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、“心の適正距離”ということについて考えてみました。わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さを担うべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。これは、新約聖書のローマ書15章1-2節の言葉です。ここで言われている強い人というのは、幅広い意味での解釈が可能ですが、信仰によって本当の自由と確信が与えられた人のことです。なぜなら、人間の本当の強さは、そこにあるからです。そういう人は、弱い人の弱さを担い、その人の益を図って喜ばせてあげなさい、と勧められています。このように、他者に対する愛の配慮はとても大切な聖書の教えですが、相手の本当の益のために何かをするということは簡単なことではありません。良かれと思ってする人助けの行為の中に、どれだけ相手のためにならないものが多いことでしょうか。たとえば、あなたが人の心の痛みをよく理解できる人である場合、そういう痛みを持つ人の助けになりたいと思うとします。それは痛みを持つ人への優しさであり、そのような温かい気持ちを持てることは素晴らしいことです。ところが、その相手が深い心の傷を持っているときは、その優しい気遣いが、それまでにその人が我慢してきた「わかってほしい」「受け入れてほしい」という欲求を刺激してしまい、あなたに向かって「甘え」が噴き出してしまうことがあります。その人が心を許せる人が少ない場合、その「甘え」は集中的に「わかってくれそうな」人に向かうので、助けたいと思って手を差し伸べたものの、過剰な依存に疲れ果ててしまいます。その相手にしても、あなたの「優しい」言葉を信じたい気持ちで一杯でありながら、願い通りにならない場合、傷つくのが怖くて、ついあなたを試すようなことを無意識的に繰り返してしまいます。「信じたいのに信じられない」のがこの人の辛いところで、あなたに期待するがゆえに、あなたの「優しさ」を試すことをするのです。これを心理ゲームと言います。そして、その度に、相手の期待する対応ができなければ怒るので、どんなに強い人でも消耗し切ってしまいます。甘えというのは、心の距離が近いほど出やすくなり、抑えが利かなくなります。一方的に甘えられて大きな負担を感じるなら、心の距離が近くなり過ぎているのかも知れません。人の痛みをよく理解できる人は、つい人を助けるために無理をしがちで、自分の気持ちを我慢してまで相手のニーズを満たそうとします。そのために、相手はますます依存的になり、それが満たされないと「やっぱり自分はダメなのだ」と無価値感を強くします。私たちは、無価値感が強いと、自分も他人も信頼できなくなるものです。自分で自分を信頼できないと他人に依存したくなり、思うように助けてくれないと他人を責めたくなります。でも、それは間違いです。誰でも、自分を信頼できる要素を持っている筈で、その思いを引き出してあげることが本当の意味での親切です。相手を助けるときに無理をしてしまうのは、相手への信頼が足りないからかも知れません。その意味で、相手を心から信頼してあげることで相手の本来の力を取り戻すことになるとすれば、適切な距離をとって見守ってあげることが一番の親切である場合もあるのです。今日の一言: 適度の距離から見守ることが本当の親切
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