【疑問】クリスチャンが求めるべきものとは?

▼何を求めたらいいのか・・・?
▼例1:エサウは何を求めたか
▼例2:ソロモンは何を求めたか
▼例3:ダビデは何を求めたか
▼例4:イエスは何を求めたか
▼神と共に生きること

求めよ、さらば与えられん・・・有名な言葉ですが、クリスチャンが本当に求めるべきなのは、どんなものなのでしょうか?

 

  • ▼何を求めたらいいのか・・・?
  • ▼例1:エサウは何を求めたか
  • ▼例2:ソロモンは何を求めたか
  • ▼例3:ダビデは何を求めたか
  • ▼例4:イエスは何を求めたか
  • ▼神と共に生きること

 

▼何を求めたらいいのか・・・?

 クリスチャンでなくとも、一度は聞いたであろう、有名な言葉がある。「求めよ、されば与えられん」。他でもない、イエスの言葉である。現代的な翻訳では、このようになっている。

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

(マタイの福音書 7章7節)

 

 イエスの教えはシンプルだ。「求めれば、与えられる」。しかし、肝心の「何を求めるのか」という点については直接の言及はない。一体、何を求めよというのだろう。何と、この言葉は日本語の辞書にも載っている。調べてみた。

【求めよさらば与えられん】

《新約聖書「マタイ伝」から》「神に祈り求めなさい。そうすれば神は正しい信仰を与えてくださるだろう」の意。転じて、物事を成就するためには、与えられるのを待つのではなく、みずから進んで求める姿勢が大事だということ。

(小学館・デジタル大辞泉)

【求めよさらば与えられん】〔マタイ福音書七章〕

信仰の主体的決断を説いたイエスの言葉。転じて、与えられるのを待つのではなく、何事にも自分から求める積極的な姿勢が必要であることをいう。

(三省堂・大辞林第三版)

 

 なるほど、日本の一般的な辞書は、「信仰を求めよ」という意味で捉えているらしい。確かに、そう考えれば合点がいくように思える。しかし、本当にそう言い切っていいのだろうか。

 同じ場面を、ルカの福音書ではこう書いている。

ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます

(ルカの福音書 11章9~13節)

 

 これを見ると、イエスは「聖霊」についての話をしているようにも思える。信仰を与えるのは聖霊の働きだが、果たしてそれだけを求めればいいのだろうか。

 また、マタイの福音書の前の部分では、こうも書いている。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

(マタイの福音書 6章33節)

 

 この流れから「求めなさい」と言っていると考えた場合、求めるべきは「神の国」になるのではないか? という考え方も、不自然ではない。

 人によっては、「何でも求めていいのだ」という人もいる。「経済的な祝福を求めれば与えられる」と解釈する人たちもいる。また「神の導きを求めれば道が拓かれる」と解釈する人もいる。「いや、聖霊だけを指すのだ」という人たちもいる。一体、イエスはどんな意図でこの発言をしたのだろうか。クリスチャンが本当に求めるべきものは、一体何なのだろうか。

 今回は、聖書に出てくる4人の人物が求めたものに注目し、これらの疑問を紐解いていきたいと思う。

 

 

▼例1:エサウは何を求めたか

 私が「求めた」という単語から、まず思い出したのが「エサウ」である。エサウは、イサクの長男。双子の兄であり、弟はヤコブであった。アブラハムの孫にあたる。エサウは、一体何を求めたのだろうか。聖書をひらいてみよう。

イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐに、兄のエサウが猟から戻って来た。彼もまた、おいしい料理を作って、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さん。起きて、息子の獲物を召し上がってください。あなた自ら、私を祝福してくださるために」父イサクは彼に言った。「だれだね、おまえは」彼は言った。「私はあなたの子、長男のエサウです。」イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べてしまい、彼を祝福してしまった。彼は必ず祝福されるだろう」エサウは父のことばを聞くと、声の限りに激しく泣き叫び、父に言った。「お父さん、私を祝福してください。私も」父は言った。「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえへの祝福を奪い取ってしまった」エサウは言った。「あいつの名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った」また言った。「私のためには、祝福を取っておかれなかったのですか」イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、すべての兄弟を彼にしもべとして与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。わが子よ、おまえのためには、いったい何ができるだろうか」エサウは父に言った。「お父さん、祝福は一つしかないのですか。お父さん、私を祝福してください。私も」エサウは声をあげて泣いた。

(創世記 27章 30~39節)

 

 エサウは、「長子の権利の祝福」を求めた。アブラハムが神と契約を交わしたその祝福を、イサクは受け継いでいた。そのイサクの祝福は、本来は長男であるエサウが引き継ぐものと思われていた。しかし、あるとき、エサウは空腹だったので、一杯のレンズ豆のスープと引き換えに、弟のヤコブにその権利を売ってしまった。この部分を読んでいただきたい。

さて、ヤコブが煮物を煮ていると、エサウが野から帰って来た。彼は疲れきっていた。エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」それで、彼の名はエドムと呼ばれた。するとヤコブは、「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言った。エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮った。

(創世記 25章29~34節)

 

 さて、エサウの軽率な言動の結果、エサウが引き継ぐはずの「祝福」は、弟ヤコブに与えられてしまった。もちろん、母リベカと弟ヤコブの策略もあったのだが、本質的にはエサウが権利を売ってしまったのが原因である。エサウは「私も祝福してください」と懇願したが、彼のための祝福は残されていなかった。彼の状況を、新約聖書はこう描写している。

また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。

(ヘブル人への手紙 12章16~17節)

 

 彼が求めたものは「祝福」であった。しかし、彼にはその祝福は与えられなかった。もし、イエスの言葉が「何でも求めてよい、そうすれば与えられる」という意味であれば、エサウは与えられてよいはずである。しかし、彼には祝福が残されてはいなかった。なぜなのだろうか。

 私は、このヘブル人への手紙を読んだとき、率直に「エサウがかわいそう」と思った。なぜか。元はといえば彼のものであった祝福を、母リベカと弟ヤコブが騙して奪ったかのように思えたからである。それなのに、騙されたエサウは祝福を受け継げなかった。涙を流してさえも、彼の願いは叶わなかった。その上、「俗悪な者」とまで書かれている。なぜなのだろうか。

 ここでやはり、エサウの言動を細かくチェックする必要がある。私は、彼の言葉の「私を祝福してください。私」(創世記27章34、38節)という部分に注目した。ヘブライ語では「バラケニー・ガム・アニー」。「ガム」は文字通り、「私も祝福してください」という意味である。「私も」ということは、ヤコブへの祝福に、自分も加えてくれという意図がある。

 しかし、エサウは本質を見失っている。彼は、自分自身で、たった一つの権利を売ったのである。しかも、一杯のレンズ豆のスープと引き換えに。もし、彼が本当に「悔い改めて」、反省して涙を流したのであれば、最初に「軽率なことをしてしまった」という反省の弁が出るはずである。しかし、彼は「私も祝福してください」と懇願したのであった。彼が望んだのは、祝福だけだった。反省せずに、ただ貰えるはずのものを貰えなかったので、懇願しただけであった。36節では「私のためには、祝福を取っておかれなかったのですか」と、父イサクのせいにしている。彼は祝福がもらえなかったので大声で泣き叫んで、ダダをこねただけだった。エサウの心は変わっていなかったのだ。 

 ヘブル人の手紙にはこう書いてある。エサウは、「心を変えてもらう余地がなかった」(新改訳3版)と。新改訳聖書2017では「彼には悔い改めの機会が残っていなかった」と書いてある。ここに本質がある。

 私はやはり「何でも求めれば、望み通り与えられる」という主張には、納得できない。現に与えられない人もいるからである。その大きな要因のひとつに、「心の動機」があるのではないか。エサウの心の動機は「祝福がほしい」だった。しかし、彼には軽率にその祝福を手放してしまった。しかも、その過失に対する反省がなかった。そして、彼はひとつしかない祝福を逃してしまったのであった。

 イエスはこう言っている。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。

(ヨハネの福音書 15章7節)

 

 

▼例2:ソロモンは何を求めたか

 「求めた」というキーワードで、次に思い出すのはソロモン王である。有名なエピソードだが、見てみよう。

ギブオンで主は夜の夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え」ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。父があなたに対し真実と正義と真心をもって、あなたの御前に歩んだからです。あなたはこの大いなる恵みを父のために保ち、今日のように、その王座に着いている子を彼にお与えになりました。わが神、主よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」これは主のみこころにかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。

(列王記第一 3章 5~10節)

 

 ソロモン王は、神に「何が欲しいか」と問われ、「民をさばくための聞き分ける心」を求めた。よくソロモン王は「知恵」を求めたと言われているが、厳密に言えば「判断力」「統治力」が正しい。ソロモンの願いは、父ダビデの時代に強大になったイスラエル王国を治めるための、王としての矜持が感じられる。

 実際に、ソロモンには適切な判断力が与えられたようだ。列王記第一3章にあるエピソードは、彼の知恵を示す代表的なものである。簡単に説明すれば、ある日、2人の女が1人の赤子をソロモンのもとに連れてきた。2人とも、その子は自分の子だと主張する。「私の子だ」「いや、私の子だ」という、水掛け論を、ソロモンはこのように治めた。「生きている子を2つに切り分け、半分をこちらに、もう半分をそちらに与えよ」。サイコパスにも程がある。

 しかし、これが上手くいった。実の母親は、子どものかわいさあまり、子どもが真っ二つにされることよりも、むしろ自分の手を離れて生きる道を望んだ。本当の母親でない方は、真っ二つにするよう望んだのである(これ自体がサイコパスだが・・・)。もちろん、本物の母親は前者であった。

 ソロモンは素晴らしい判断力でイスラエルの国を統治した。では、ソロモンは完璧な判断力を持った王となったのであろうか。いや、そうではない。彼は政治においては力を発揮したかもしれない。しかし、神に対して忠実ではなかった。彼は、力が強くなるにつれ、諸外国の女性を妻としてめとるようになった。彼には700人の妻と、300人のそばめがいたという。その多くが政略結婚だったのだろうが、諸外国の女たちを妻にした結果、ソロモンは諸外国の神々をも崇拝するようになってしまったのだ。彼は、外国の神々を崇拝する儀式や伝統、文化を取り入れてしまったのであった。聖書にはこう書いてある。

彼には、700人の王妃としての妻と、300人の側女がいた。その妻たちが彼の心を転じた。

(列王記第一 11章3節)

イスラエルの王ソロモンも、このことで罪を犯したではないか。多くの国の中で彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、その彼にさえ異国人の女たちが罪を犯させてしまった。

(ネヘミヤ記 13:26)

 

 ソロモンが、なんと失敗した例として言及されているのである。偉大な王であるはずのソロモンが、実は後の時代に、こんなにもこき下ろされているのである。彼は本当に知恵のある王だったのだろうか。否。彼は失敗し、その失敗を修正できなかった王である。彼は本当に識別力のある王だったのだろうか。否。彼は神に対して忠実ではなかった。

 ソロモンが「判断力」を求めたエピソードは、クリスチャンの間でよく「模範解答」として紹介される。しかし、本当にそうなのだろうか。私は、ソロモンの答えは、「長寿」「敵の失墜」「富」を求めなかったという意味では「及第点」だとは思う。しかし、決して「ベスト」ではなかったと思っている。では、何がベストだったのか。彼の父、ダビデを見てみよう。

 

 

▼例3:ダビデは何を求めたか

 ダビデは何を求めたのだろうか。聖書を見てみよう。

まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます。

(詩篇 23篇6節)

一つのことを私は主に願った。 それを私は求めている。 私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。 主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。

(詩篇 27篇4節)

 

 ダビデは、神と共に生きる人生を求めた。ダビデは、いくつもの失敗をした。自分の部下を殺して、その妻を略奪した。おそらくは自分の力を誇示するために、神の意思を聞かずに人口調査をした。そして、自分の子どもたちを正しく教育できなかった・・・。

 しかし、ダビデはこのように評価されている。

ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つにはなっていなかった。

(列王記第一 11章4節)

彼は、かつて自分の父が行ったあらゆる罪のうちを歩み、彼の心は父祖ダビデの心のように、彼の神、主と一つにはなっていなかった。(中略)それは、ダビデが主の目にかなうことを行い、ヒッタイト人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことからそれなかったからである。

(列王記第一 15章3~5節)

 

 いかがだろうか。これ以上ない、絶賛の嵐。最高の称賛を、ダビデは受けている。ダビデは「心が主とひとつになっていた」のである。

 ダビデは、あらゆる意味で失敗をした。しかし、彼はその度に神の前に反省し、深く自分の行いを悔いて、「歩み」を改めた。その結果、彼は「主と共に歩んだ」「彼の心は一生涯主とひとつであった」と評価されているのである。

 実は、この「主と共に歩む」「心が主とひとつになる」という点で、共通している人物がいる。他でもない、イエスである。

 

 

▼例4:イエスは何を求めたか

 イエスは自分自身を、どのように表現したか。見てみよう。

わたしと父とは一つです。

(ヨハネの福音書 10章30節)

そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

(ヨハネの福音書 5章18節)

 

 どうだろうか。イエスは、自分の言葉も、行いも、そして心も、全て父(神)とひとつだと宣言したのである。ダビデが神と共に歩んだのと同じ、いや、それ以上にイエスは神と共に歩み、神と心ひとつになっていたのである。

 そして、イエスは自分だけではなく、自分を信じる者たちが、神とひとつになれるように、祈った。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

(ヨハネの福音書 17章20~23節)

 

 「彼らが父よ、あなたに留まるように」それがイエスの切実な祈りであった。イエスは、何よりも、クリスチャンが神と心ひとつになり、神と共に生きるように祈ったのである。

 イエスは、クリスチャンが毎週日曜日に教会に通えるように祈っていない。イエスは、クリスチャンが聖書を学問的に学ぶ知識が与えられるようには祈っていない。イエスは、クリスチャンが「奉仕」をするように祈っていない。イエスは、クリスチャンたちが「すべての人が父なる神のもとにひとつになる」ように祈ったのである。

 

▼神と共に生きること

 本題に戻ろう。「求めよ。されば与えられん」。この言葉は、何を求めよと言っているのか。私は、クリスチャンが本当に求めるべきは、「神と共に歩むこと」そして「神と心ひとつになること」、この2つに尽きると思う。実は、その2つに神が定める「生き方」が内包されていると言っても過言ではない。

 昨今、「求めよ。されば与えられん」を用いて、「何でも神様に求めなさい」という教えを、よく耳にする。確かに、神には何だって求めてもよいとは思う。経済的祝福であれ、自分の昇進であれ、高級な車であれ、日々の必要なものであれ、人間関係の改善であれ、病気の癒やしであれ、晴天であれ、彼氏や彼女であれ、それを求めたければ何だって神に求めればよいとは思う。

 しかし、その際に3つのことを念頭に置く必要がある。

1:エサウのように「心の動機」が問われる(参考:ヤコブの手紙4章3節)

2:それが必ず自分の思い通りのタイミングや方法、見える形で与えられるとは限らない

3:全てを決定し、実行するのは神である

 

 モーセは、約束の地に入りたいと願った。しかし、神は「もう十分だ。このことについて二度とわたしに語ってはならない」と言った(申命記3章26節)。パウロは、「自分にあるとげ」を抜いてくださいと3度も神に願った。しかし、神の答えは「わたしの恵みは、あなたに十分である」(コリント人への手紙第二12章9節)だった。どちらも、彼らが願う方法では願いは叶えられなかった。

 イエスは、こうも言っている。

しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

(マタイの福音書 6章29~34節)

 

 このようなイエスの言葉を信じれば、いたずらに「富を求める」行為は、必ずしも神に喜ばれる願いではないような気が、私はしてしまう。大切なのは、やっぱり心の動機であるのは、間違いないだろう。富を得た結果、何に使いたいのか。それを、神を見ている気がする。

 

 求めるものは求め、願うものは願ったらいいと思う。与えるも、与えないも、神の計画次第。大切なのは結果を神に委ねること。そして、何よりも「神と共に歩む」こと、「神と心ひとつ」にされるよう求めること。これは聖霊の助けなしにはできない生き方である。だからこそ、「聖霊の助け」を求める。これが、イエスが語ったことの真髄ではないか・・・と、私は思う。

 

(了)

 

◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。 

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