【聖書】聖書の日本語、実は翻訳ミスだった?!

▼聖書は日本語に影響を与えている
▼聖書はどのように翻訳されたのか
▼西洋の宣教師VS日本の知識人たち
▼用語1:愛
▼用語2:神
▼用語3:教会
▼その他の用語(洗礼・聖霊)
▼おまけ:口語訳と共同訳系・新改訳系の決定的違い
▼参考図書

愛、神、教会・・・日本語に影響を与えた聖書用語ですが、実は翻訳間違いだった可能性があるのです。どういうことでしょう・・・?!

 

  • ▼聖書は日本語に影響を与えている
  • ▼聖書はどのように翻訳されたのか
  • ▼西洋の宣教師VS日本の知識人たち
  • ▼用語1:愛
  • ▼用語2:神
  • ▼用語3:教会
  • ▼その他の用語(洗礼・聖霊)
  • ▼おまけ:口語訳と共同訳系・新改訳系の決定的違い
  • ▼参考図書

 

▼聖書は日本語に影響を与えている

 日本人のクリスチャンは、とても少ない。人口の、約0.4~1%(40万人~100万人)がクリスチャンだと言われている。これは、世界でもかなり少ない水準である。しかし、多くの日本人が、知らず知らずのうちに、聖書が語源の言葉を使っている。神、天使、悪魔、愛、教会、などなど・・・実は元々日本語にはなかった単語が、聖書翻訳の過程で生み出されていったのである。そして、それらの単語は、現在、自然な形で日本人の会話、文章の中に定着している。聖書は、日本語に多大な影響を与えているのである。

 さて、この翻訳の過程で、日本人の翻訳者たちが参考にしたのが、中国語の聖書だ。中国語の影響を語らずして、日本語の聖書翻訳は語れない。聖書が初めて日本語に翻訳されたのは、江戸末期~明治時代と言われている。その時代の知識層の人々にとって、「漢文」をマスターするのは必須条件だった。つまり、当時のエリートたちは、中国語ができたのである。だから、聖書を翻訳する際に、彼らが中国語の影響を強く受けていたのは間違いない。

 実は、この中国語の「聖書用語」が、日本語になった際に、そのニュアンスを分かりづらくしてしまっている原因なのである。日本人が聖書を読んでもピンと来ないのは、中国語の影響による翻訳ミスが大きな原因のひとつなのだ。聖書が語っている本来の意味から、ニュアンスのズレが生じているのである。今回は、簡潔に聖書の翻訳過程をまとめ、特に齟齬が大きいと思われる「聖書用語」を3つ紹介する。

 なお、今回の記事を書くにあたり、いくつかの本を参考にした(記事最後を参照)。今回の記事は、これらの書籍をベースにした、私の個人的意見であることをご留意願いたい。尚、聖書の翻訳課程はものすごく細かい経緯があり、それだけで何冊も本が書けてしまうほどだ。今回は、その中核だけを抜き出し、要約した「入門編」だとご理解いただきたい。

 

 

▼聖書はどのように翻訳されたのか

 日本語で最初の本格的に翻訳された聖書は、「明治元訳」である(※以後、「明治訳」と記載する)。「明治訳」は、新約聖書部分が1879年に完成し、1887年に旧約聖書部分が完成した。これが、初めての日本語の完全な新旧訳聖書である。その前にも、1830年代から、シンガポールや台湾にいた宣教師や日本人たちが、部分的に福音書を翻訳してはいたのたが、一部分のみであったし、中国語やポルトガル語に翻訳された聖書を、再度日本語にするといった類のものであった。

 明治訳が、大正時代に入り、より身近な日本語に改善された。これが「大正訳」。「大正訳」はたいへん評判が良く、今の「文語訳」と呼ばれる聖書として今でも使用されている。この「明治・大正訳」が日本語の聖書のベースとなっている。

日本語に与えた聖書語の骨格は「明治元訳」で形成され、「大正改訳」でほぼ定まったということができる。

(鈴木範久「聖書の日本語」p.175)

 

 戦後、この聖書の見直しがなされ、「明治・大正訳」をより現代的な表現に直したものが「口語訳聖書」である(※詳しくは後述)。その後、1978年に、カトリックとプロテスタントが共同で翻訳し、発行したのが「共同訳」だ。「共同訳」は1987年に改良が加えられ、「新共同訳聖書」となった。「新共同訳聖書」は現在、最もメジャーな日本語訳といっていいだろう。

 一方、プロテスタントの「福音派」と呼ばれるグループは、1960年代に翻訳委員会(新改訳聖書刊行会)を設立。本格的に聖書翻訳をやり直し、1970年に発行したのが「新改訳聖書」である。「福音派」グループのほとんどは、この翻訳を用いている。「新改訳聖書」はその後、2版、3版と翻訳を繰り返し、2017年には「新改訳聖書2017」が刊行された。

 「共同訳」側も、近年、新しい翻訳を行った。それまでは各章ごとに翻訳者がバラバラだった「新共同訳聖書」を改め、統一された翻訳委員会が再翻訳を試み、2018年冬に「聖書協会共同訳」を出版した。私は、最近この翻訳を主に読んでいるが、「新共同訳聖書」と比べると、かなりの改善が見られ、また解説や注釈も手厚く、重宝している。

 まとめると、日本語の聖書は江戸~明治時代に、西洋の宣教師の知識的、金銭的援助を受けながら成立した「明治訳」がベースとなっている。その翻訳過程において、中国語の聖書用語による影響が色濃く残っているのは、異論のない事実である。この四半世紀でかなりの翻訳がなされているといえ、「愛」「神」「教会」などの聖書用語は、そのまま明治時代の翻訳を踏襲している。それらの用語は、既に一般の日本語として定着してしまっており、もはや再定義は不可能に近いが、実はこの「聖書用語のニュアンスのズレ」が、日本人が聖書を読む際に、非常に大きな障壁となっているのである。では、なぜそのような「ズレ」が生じてしまったのか、見ていこう。

 

 

▼西洋の宣教師VS日本の知識人たち

 日本で最初の本格的な翻訳である「明治訳」の聖書は、西洋の宣教師と日本の代表者(いずれも知識層)の混合チームが行った。この際、力関係的には西洋側が圧倒的優位(地位的にも、知識的にも)に立っていた。あくまでも西洋の宣教師たちが「翻訳者」であり、日本人たちは「助手」に過ぎなかった。しかし、日本側もプライドがあり、かなりの抵抗をしたようである。

 この際、両者の決定的な溝となったのが、「ヘブライ語、ギリシャ語から翻訳するのか」(西洋側)、「漢語(中国語)の聖書を基調とするのか」(日本側)という両者の考えの違いである。無論、前者の方が圧倒的に正しいのだが、日本側にヘブライ語やギリシャ語の知識がある人材が当時いなかった為、どうしても中国語の聖書に引っ張られる傾向があった。当時の聖書翻訳に関わった井深梶之助氏は、こう述べている。

せっかく聖書を日本語に翻訳しても、ただ少数の学者だけに読めて、普通の人に読めるようでは、何の利益があるのかと、(西洋宣教師)の先生はしばしば繰返した。また、翻訳の補佐役の日本人が、「漢文はこうだ」と言うと、「漢文は原文じゃない」と力説されたことが何度もあった。

(鈴木範久「聖書の日本語」p.99 <※表現を現代風にしている>)

 

 当時の日本人は、たとえ知識層であっても、中国語に加え、オランダ語や英語を知ってるというのが関の山で、ラテン語はおろか、ヘブライ語やギリシャ語が分かる人材はいなかった。だから、当時の日本語聖書は、外国語、とりわけ中国語と英語に翻訳された聖書を再度、日本語に翻訳し直すという「二重の翻訳」によって出来上がったのである。

 当然、西洋の宣教師たちの助けで、原語のニュアンスはある程度加味したのだろう。しかし、当時日本に来ていた宣教師は、ほとんどが中国で実績をあげてから日本に来た人々だった。これは、違和感なく中国語の用語が受け容れられてしまった一つの要因にもなった。

あえていうならば、日本のキリスト教の受容は、聖書語に関する限り、儒教や仏教の経典と同じく、中国経由なのである。たとえば「神」や「愛」という重要な言葉は、その訳語をめぐり中国で激しい論争があったにもかかわらず、日本ではあたかも「原語」として、ほとんど論争ひとつ起こらずに受け容れられてしまった。

(鈴木範久「聖書の日本語」p.220)

 

 「聖書用語選定」の過程で、最終決定をするのは常に日本側であった。これは、当時の西洋の宣教師が謙遜に日本人たちの決定を尊重したからでもある。結構なことだが、その結果、知識層の日本人たちは、ほとんどの聖書用語を漢文から引用してしまった。こうして、「神」「愛」「洗礼」「教会」などの、あえて言えば「間違った翻訳用語」を転用してしまったのであった。

 中国語や英語の聖書から、日本語への「二重翻訳」の結果、中国語では、まだギリギリ残っていたそのニュアンスが、全く違うものになってしまったのである。結局、日本語の聖書のベースとなった「文語訳」の正体は、以下のようなものである。

文語訳(明治・大正訳)は、宣教師が和英辞書を用いて翻訳作業をしたものの、既に漢文聖書が存在したため、日本人側の助手と共にその翻訳には漢文の語彙を当て、訓読みにして、描き下ろし翻訳された聖書である。(中略)文語訳は学識的だったため主に知識層に受け入れられた。

(渡部信「日本における聖書翻訳の歩み」p.75)

 

 当時の日本人知識層の漢文への過剰な信頼とプライド。宣教師たちの中国での経験。ヘブライ語、ギリシャ語から直接翻訳できる人材の不在。これらが、日本語の聖書用語に、決定的な「分かりづらさ」を生み出してしまったのだ。

 では、「中国語」の影響で、どのようなニュアンスの違いが生まれてしまったのか。具体的に3つの単語を挙げる。

 

▼用語1:愛

 「愛」は最も日本人に想像し難い言葉のひとつである。そもそも、日本語で「Love」を表す言葉は、本来は「愛」だけではなかった。以下をご覧いただきたい。

「愛」:上の者が下の者を憐れむ愛。君主がしもべを愛する。親が子を愛する。また、性的な「エロス」の愛の意味。

「忠」:しもべが君主に忠義を尽くす愛。忠誠心。

「孝」:子どもが親に対して孝行する愛。親孝行。

「悌」:年上のきょうだいを愛する愛。

「敬」:部下が上司を敬う愛。敬愛。

「仁」:他人を憐れみ、大切に思う愛。仁義。仁愛。

 

  なるほど、日本語では、立場や相手によって「愛」の用語が違うのである。「忠義を尽くす」「親孝行をする」「敬愛を示す」「仁義を切る」どれも自然な日本語である。だから、簡単に「この用語」と決めつけるのは、至難の業である。

 そもそも聖書の「愛」は、ギリシャ語の「アガペー」(無条件の愛)、「フィレオー」(友情の愛)、「エロス」(性的な愛)など様々な用語がある。ヘブライ語も「愛」や「慈しみ」や「憐れみ」など様々あり、用語を統一するのは不可能である。というより、ふさわしくない。

 初期の翻訳者たちは、この「愛」をどう訳出するか、相当苦労したようである。初期の翻訳で、「Love」は、「御大切にする」と翻訳されている。宣教師ヘボンは、「Love」を「いつくしみ」と訳している。やはり「愛」は、友情や親の愛情、そして性的なニュアンスもあったために、避けられたのだろう。当初は避けられた「愛」が、これまた中国語聖書の影響で、「明治訳」の際に定着し、今日に至っている。

 私は、「愛」の訳は、ケース・バイ・ケースで訳出したらいいと思っている。例えば、「神は愛です」というギリシャ語風表現は、「天の主はやさしい神様です」や「天の主は憐れみ深いお方です」というように訳出した方が良いと思う(日本語は「私は道である」というような、「生き物=モノ」という構文を用いない)。「互いに愛し合いなさい」は、「お互いに、思いやりの心を持ちなさい」。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」は、「まわりの人を、あなた自身のように大切にしなさい」としたら、心にシックリくるのではないだろうか。

 私の個人的な意見では、あえて「愛」を一言で訳すなら「仁」または「仁愛」の方が良かったと思う。場合によっては、「大切にする」「思いやる」「受け入れる」「いつくしむ」「あわれむ」などの言葉が適切なように思う。現代においては、聖書用語の影響で「愛」の意味合いそのものが変わってきている。だから、無理して単語を変える必要はもはやないのだが、「仁」が採用されていれば、日本人の神の愛に対する理解は、さらに深まっていたのではないかと思う。

 究極的には、「そばいいるよ」「ここにいるよ」というのが、日本語の最大限の愛情表現ではないかと、私は思う。そう考えると、神がモーセに名前を尋ねられたときに「私はここにいる者だ」(I am who I am)と答えた(出エジプト3:14)のも、シックリ来るのではないだろうか。

 

 

▼用語2:神

 「神」は、数多くの聖書用語の中で、最も翻訳についての議論があった用語であろう。英語でいえば「God」。ヘブライ語では「エロヒーム」、そして有名な「ヤハウェ」などとされる、「4文字(IHVH)」の神の名前である。

 この「God」をどう訳すかは、中国で激しい議論となった。「神」「天」「上帝」「天主」「天皇」「神主」などの数多くの候補から、最終的には「神」(シン)を採用するか、「上帝」を採用するかで大きな対立となった。アメリカ系の宣教師は「神」を主張し、イギリス系の宣教師は「上帝」を主張した。

 「神」採用論には、大きな問題があった。そもそも、「神」は、「山の神」のような精霊・スピリット的な用語で使われていた単語だった。明らかに、天地万物を創造した唯一の神というニュアンスとは違っていた。

 しかし、「上帝」にも問題があった。中国で「上帝」は国の王、つまり「皇帝」を指す用語だった。アメリカ系宣教師たちは、唯一の神と皇帝が混同されるのを嫌った。政治的ニュアンスを避けたかったのである。その結果、最終的には「神」に落ち着いたのであった。

 しかし、カトリックは「神」の使用を嫌い、新しい造語である、「天主」(てんしゅ)を採用した。この影響は今でも残っていて、例えば韓国語ではカトリックを「天主教」(チョンジュキョ)、プロテスタントを「基督教」(キドッキョ)といってハッキリ区別する。

 

 さて、中国語の聖書が「神」を採用したため、日本語への翻訳の際も、「神」(カミ)が重視された。初期の翻訳の中には、「上帝」や「真神」(真の神という意味)、中には「ゴクラク」と訳したものもあった。しかし、徐々に「神」が主な用語となっていった。

 いわずもがな、これは非常に悪い翻訳であった。日本語の「神」(カミ)は、ご存知の通り、中国語以上に「唯一の天地万物の創造主なる神・ヤハウェ」とは意味がかけ離れている。「八百万の神」というように、日本では、そこらへんの木も「カミ」、岩も「カミ」、そよ風も、虫も、鳥も、何もかもが「カミ」だったのである。中国語でも意味が離れていたのに、日本語にしたらさらにニュアンスが変わり、全く違う意味になってしまったのである。どちらかと言えば、「天使・御使い」の方が、本来の「神」の意味に近い。

 初期の聖書翻訳に多大なる貢献をした宣教師のヘボンも「神」採用には前向きではなかったようである。

ヘボンは、同じ「神」の語を使う際の中国と日本における相違に触れ、中国で「神」の語を採用した訳者も、もし日本にいたら「神」の語は使わなかったであろうと述べている。

(鈴木範久「聖書の日本語」p.201)

 

 初期の日本聖書翻訳者たちが、「神」と「God・ヤハウェ」の違いを、言葉によって定義づけできなかったため、このような誤解が生じてしまった。中には、「上帝」「天父」「真神」などの用語を主張した人もいたが、その声はかき消されてしまった。カトリックは「天主」を使い続けたが、1959年に「神」に変更してしまった。そのまま「天主」を使っていればよかったものを・・・。

 では、どう言えば良かったのか。私は「天」または「天主」を支持する。有名な「敬天愛人」という西郷隆盛の言葉にもあるように、日本人にとって自らの運命を握っているのは、「神」でも「仏」でもなく、「天」であった。「天のカミサマの言う通り」という歌を子どもが歌っているのを見たこともあるだろう。「お天道様は見ている」と言うだろう。「神」より「天・天主」の方がよっぽど、「唯一」「天地万物を創造した」「力がある」「誰に対しても神である」存在として人々に広まったのではないだろうか。しかし、残念ながら、時すでに遅しではある。「愛」と同じく、聖書用語によって日本語の「神」のニュアンスも変わりつつある。

 

 

▼用語3:教会

 「教会」。こればかりは今すぐにでも変更した方が良い訳である。そもそも、「教会」と訳された、ギリシャ語の「エクレシア」、ヘブライ語の「ケヒラー」は、いずれも「人の集まり」という意味である。素直に訳すなら「集会」が正しい。

この語(エクレシア)は一般に「教会」と約される。しかしその際私たちは、だいたいにおいて「教会」という建物を想像するのではないだろうか。だが「教会」という固有の建物が建つのは、早くて三世紀末から四世紀初頭である。それまでは皆、個人の家に集まって礼拝等を行っていたのである。これを「家の教会」(house church)などと言っているが、いずれにせよekklesia(エクレシア)とは、新約聖書に関する限り、建物を指してはいず、むしろ人々のコミュニティの謂(いい・「意味」)なのである。したがって日本語としては、「集会」と言った方が正しい。

(佐藤研「福音書翻訳のむずかしさ」p.26)

 

  「教会」は、それまでの日本語になかった、全く新しい用語である。言わずもがな、中国語からの借用である。中国語でなぜ「エクレシア」を「教会」と訳したのは不明だが(※詳細求む)、日本語への翻訳の際、中国語の単語を用いたのは明らかである。

 実は、ヘボンの最初の翻訳では「エクレシア」は「集会」となっていた。それが、「明治訳」の際に、やはり中国語を重視したためか、「教会」に変わってしまったのである。これは、当時の翻訳委員会の最大の過ちと言えるかもしれない。

 本来の「エクレシア」は、「イエスに信頼する者たちの集まり」というふうに、「人」に焦点が置かれていた。しかし、それが「教える会」となってしまった。「教会」は、何かを学ぶ場所となってしまったのである。その結果、「学ぶこと」「組織」に焦点が置かれてしまい、本来の「お互いを思いやる」「励まし合い、支え合う」という集会の目的がブレブレになってしまった。そして、現代の日本の多くのクリスチャンが陥っている、「教会教信者」を生み出すこととなってしまったのである。

 私は、「集会・集い」に今からでも訳語を変更すべきだと思っている。

 

 

▼その他の用語(洗礼・聖霊)

 他にも、ヘンテコな聖書用語、議論のあった用語 は様々ある。例えば、「バプティゾー」(洗礼・せんれい)をどのように訳すかは、日本語聖書作成の際、激しい議論があったようである。「洗礼(せんれい)」にするか、「バプテスマ」にするか、はたまた「しづめ(沈め)」にするか。聖書を気仙沼の方言で訳した山浦玄嗣氏は、「お水くぐり」と訳出している。「洗礼」のニュアンスがいかに間違っているかの詳細は当ブログの過去記事を参照していただきたい。やはり「洗う」「きよめる」というニュアンスがある「洗礼」は上手い翻訳とは言えない。個人的には「沈め」「浸し」「お水くぐり」などが良い訳語かと思う。

 また、「聖霊」も誤解のある表現だ。「聖霊」とは、神の力の現れ、神の息吹である。ギリシャ語では「プネウマ」。ヘブライ語では「ルアフ(風)」である。これをとって、初期の翻訳では、「神風(しんぷう)」という案もあったようだ。山浦氏は、「神さまの息」としている。「霊」という単語は、「精霊」や「幽霊」を連想させる。こちらも、例に漏れず(霊だけに)、中国語からの借用である。

 私は、「プネウマ・ルアフ」の訳語として、「神風(かみかぜ)」が良いと思うが、どうも「神風特攻隊」と重なってしまうのでダメだ。「神の息吹」などはどうだろう。当初は、「聖気」という案もあったようである。「神通力」はどうだろう。ダメ?

 他にも「天使」「悪魔」「義」など、翻訳過程で議論があった単語は数え切れない。気になったものは、一度調べてみてはどうだろうか。

 

▼おまけ:口語訳と共同訳系・新改訳系の決定的違い

 最後に、「口語訳聖書」と「共同訳聖書」「新改訳聖書」の決定的な違いについて書く。何度も言っているように、日本語の聖書のベースとなっているのは「明治・大正訳」、のちの「文語訳聖書」である。その際、参考になっているのは主に中国語(漢文)の聖書である。

 さて「口語訳」と他の翻訳の決定的違いは何か。実は、「口語訳」は、「文語訳」を現代版にした、「日本語→日本語」の翻訳なのである。

文語体の改訳試訳版と、「口語訳」をくらべてみると、後者は新訳というよりは、国語改革にしたがい、文語体の試訳をそのまま口語体に置き換えた感が否めない。

(鈴木範久「聖書の日本語」p.152)

口語訳聖書は、聖書原点と英語聖書を照らし合わせながら文語訳聖書を改訳したものである。原語からの翻訳と、新国語表記に沿いつつ義務教育を終えた者が読める漢字を使用して頒布された。

(渡部信「日本における聖書翻訳の歩み」p.75)

 

 つまり、「口語訳聖書」は、原文からの翻訳作業を経ておらず、「文語訳聖書」を現代的日本語に改良しただけなのだ。

 一方で、「共同訳」「新改訳」は、日本語ではなく原語から、時代とともに改訳が繰り返されている。個人的には、日常的に使用するなら、「共同訳系」か「新改訳系」がオススメである。それも、新しい翻訳(「聖書協会共同訳」「新改訳2017」など)をオススメする。なぜなら、聖書研究の積み重ねによって改良されているし、現代の日本語により近い形で翻訳されているからである。

 もっとも、イエスの言葉は、本当の意味での「原語」で残されているわけではない。それもそうだ。イエスはヘブライ語・アラム語で話したとされている。それなら、ギリシャ語で書かれている福音書のイエスの言葉は、既にギリシャ語へと「翻訳」されていることになる。ここまで書いておいて恐縮だが、ギリシャ語の原語でさえも、「原語ではない」という認識で聖書を読むことが、一番大切なのだ。だから、聖書を読む際には、その時代、文化、原語、背景、対象、筆者を念頭に置きながら読む必要がある。

 

私たちは、イエスの生の言葉をもはや持っていないのである。

(佐藤研「福音書翻訳のむずかしさ」p.18)

 

 (了)

 

◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

▼参考図書

・鈴木範久「聖書の日本語」岩波書店、2006年

・佐藤研「聖書翻訳の難しさ」(「日本における聖書翻訳の歩み」上智大学キリスト教文化研究所編、2013年)

・渡部信「日本における聖書翻訳の歩み」(「日本における聖書翻訳の歩み」上智大学キリスト教文化研究所編、2013年)

・山浦玄嗣「ケセン語訳聖書からセケン語訳聖書へ」(「日本における聖書翻訳の歩み」上智大学キリスト教文化研究所編、2013年)

・山浦玄嗣「いちじくの木の下で 上下巻」イー・ピックス、2015年

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