教会の「礼拝会」に行くと、最後に牧師が両手を広げて「仰ぎこい願わくは・・・」とか言い出します。これって何?!
クリスチャンの教会の礼拝会に行くと、集会の最後に、牧師が前に出て来て、両手を広げてこう言う。
「仰ぎこい願わくは、われらの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、あなた方の上に、豊かにあらんことを アーメン」
これは、いわゆる「祝祷」(しゅくとう)と呼ばれるものだ。英語でbenediction(ベネディクション)とも言う。表現や、やり方は教会やグループなどによって多少は違うだろうが、おおむねこのような表現で行う。集会に集った人たちを祝福する、祝福の祈りである。
根拠となっている聖書の言葉は、新約聖書の第二コリントにある。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。
(コリント人への手紙第二 13:13)
なるほど、ほとんどソックリそのままだが、多少のアレンジが加わっていると分かる。この言葉は、コリント人への手紙の一番最後に記されている。最後のあいさつ代わりの、祝福の言葉である。イエス・神・聖霊という、いわゆる「三位一体」と呼ばれる神の性質にも触れつつ、神の恵みと愛が共にあるよう祈る、素晴しい言葉だ。
現代のプロテスタント教会は、礼拝会の終わりに、たいていこの言葉を用いた「祝祷」を行う。この「祝祷」自体は、素晴しい行為であり、人々が集った時に聖書の言葉を用いてお互いに祝福し合うのは、とても良い習慣だと思う。
素晴しいと思ったので、私はある時、祈り会の最後に「じゃあ、祝祷の言葉で祈ろう」と提案した。自分ではナイスな提案だと思ったのだが、そのうちの一人がこう言った。「祈れません」と。
なぜ? と聞いてみると、「私の教団では、牧師以外の人は『祝祷』を祈ってはいけないという決まりがあるのです」と言う。驚いた。祈りを禁じるとは。一体聖書のどこに書いてあるのだろうか。今回は、この「祝祷」問題を考えたい。
不思議に思ったので、私は、その一人に聞いてみた。「ねぇ、なんで牧師じゃないと『祝祷』を祈っちゃいけないの?」
彼は答えた。「理由はよく分かりませんが、教団の決まりなのです。祝祷を祈るのが赦されるのは牧師だけで、伝道師や宣教師にも許されていません」
なるほど、明確な根拠はないらしい。話を聞くうちに、私はある事実に気がついた。「あ、なるほど。祭司と牧師を混同しているから、こういう勘違いが起きるのか」
このブログの読者なら、結論は既にお気づきかもしれない。その通り。聖書のどこにも「『祝祷』ができるのは牧師だけ」とは書いていない。そもそも、「祝祷」という言葉自体が聖書に書いていない。ただ、第二コリントの聖書の言葉をアレンジして祈りの言葉にしただけである。ただの文化である。それを「牧師しか祈ってはいけない」というのは、全くのデタラメ、ウソもいいとこだ。恥を知った方がいい。
なぜこのような嘘偽りのデタラメが横行してしまうのか。それは、祭司と牧師を混同しているからである。牧師は神の言葉を取り次ぐ「祭司」ではない。一旦、両方の役割を整理しよう。
【祭司】
・祭司の役割は、「神と人との仲介」である。
・聖書で一番始めに「祭司」と呼ばれているのは「メルキゼデク」である(創世記14:18)
・広義の「祭司」は、イスラエルの民である。イスラエルの民は「祭司の王国」と呼ばれる(出エジ19:6)
・狭義の「祭司」は、イスラエルの民のうち、レビ族から任命された。レビ族は、幕屋の移動や設置、きよめの儀式を司式などを担った。服装や儀式については、細かく厳しい、具体的な決まりを守る必要があった。(出エジ28章など参照)
・ダビデはレビ族ではなかったが、例外的に、「王であり祭司」であった。これはイエスの伏線(型)である。
・イエスは、「永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司」である(ヘブル6:20)
・イエスは、「新しい契約の仲介者」である(ヘブル12:24)
・よって、現代においてもイエスが私たちの祭司である。イエスが仲介者となることにより、私たちは神との永遠の交わりを与えられる。
【牧師】
・牧師の本来の意味は、「羊飼い」である。
・牧師は、教会という共同体のひとつの役割に過ぎない。
・牧師の役割は、共同体の管理と教育である(エペソ4:11)
・「神と人との仲介」は、祭司の役割であって、牧師の役割ではない。
・イエスが神と人との仲介者である。牧師ではない。
<過去記事参考>
牧師の役割は、共同体の管理と教育であって、神と人との仲介ではない。それは祭司の役割である。イエスは、たった一人の、永遠の大祭司となった。私たちは、個人的に大祭司であるイエスを信じ、救いを受ける。これがクリスチャンの信仰である。牧師を通して祈るのではなく、イエスの名前を通して神に祈るのである。
これを混同してしまうと、間違いが起きる。祭司は「レビ族」だけの特権的役割だった。牧師をこれと同じに考えてしまうから、「その資格がない、牧師でない人は、その祈りは赦されていない」という考えにつながってしまうのだ。
ハッキリいって、これは大間違いだ。とても傲慢な、間違った教えである。牧師は祭司ではない。共同体の役割の、ほんの一部分である。それなのに、牧師を祭司と勘違いし、「牧師でない人はこの祈りはしてはいけない」などと言うなんて、一体何様なのだろうか。牧師を通してでないと神に祈れないと、一体聖書のどこに書いてあるのだろう。
原点に戻ろう。「祝祷」は、第二コリントにある聖書の言葉をアレンジした文言である。このように、現代のキリスト教の文化では、聖書の言葉通りに祈ることが多い。本来、祈りの言葉は個人の自由な言葉でいいのだが、聖書の言葉で祈るのは、とてもいいガイドとなる。
聖書の言葉を用いた祈りとして、最も有名なのは、やはり「主の祈り」だろう。クリスチャンではない人も、耳にしたことがあるかもしれない。マタイの福音書とルカの福音書に記述があるが、マタイの方を紹介しよう。
(イエスは言った)ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」
(マタイの福音書 6:9~13)
イエスが、このように祈れと命じたのである。もっとも、文脈を見れば明らかだが、この文言通りという意味ではなく、「こういう内容のことを祈ったらいいよ」というオススメである(※これについては別記事を書く予定)。現代の教会では、訳は様々だが、この祈りを繰り返し暗唱するところも多い。
さて、問題は、なぜ「主の祈り」は推奨されているのに、「祝祷」になると牧師だけしかダメなのかという点である。この疑問の答えはない。なぜなら、そもそも「牧師だけしか祝祷できない」という考えが間違っているからである。この疑問に答えられるなら、意見を募集したい。
何度も言うが、「祝祷」は第二コリントの聖書の言葉をアレンジしたものであり、それ自体に何ら拘束力もないし、神聖なものでもない。ただ、素晴しい文言だというだけだ。もし、「祝祷」は牧師だけしか唱えてはいけないとするならば、それは聖書の言葉を唱えることを禁じていると同じ意味になる。聖書の言葉を唱えるのを禁じる?! 誰が何の権利があって、そんな横暴なことができるのだろうか! ハッキリ言う。そんなのは只の人間が作ったまやかしだ。ごまかしだ。ウソだ。聖書の言葉を唱えるな、なんてそんなバカな決まりは、即刻無くしたほうがいい。呆れてものが言えない。
聖書そのものが、私たちに祈るように勧めていないだろうか。お互いを祝福することを、勧めていないだろうか。
兄弟たち、私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。
(ローマ人への手紙 15:30)
たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。同時に、私たちのためにも祈ってください。
(コロサイ 4:2~3)
最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。
(ペテロの手紙第一 3:8~9)
牧師でなければ、他の人を祝福できない、なんていうのはキリスト教の文化が作ってしまった大ウソであり、ごまかしである。聖書に基づいて、お互いをバンバン祝福し合おうではないか。
では、「祝祷」はどうすれば良いのか。私は、ずっと牧師だけが両手を広げて、まるで自分がイエスになったのかのように会衆を祝福するスタイルに、疑問を感じていた。そして、最近、自分なりの答えに出会った。
今、私が集っている教会の礼拝会に、初めて参加したときのことだ。司会者が、こう言った。「それではみなさんで、『祝祷』を捧げましょう」そして、全員が立ち上がり、全員の口で祝祷を用いて祈った。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちとともに、豊かにありますように」
正直、目からウロコだった。「そうか。お互いに祝福しあえばいいのか!」これが、私の「祝祷」に対する答えになった。お互いに、「私たちの間に、神の愛と恵みと交わりが豊かにありますように」と祈り、祝福し合う。これが、互いに愛し合う共同体のひとつの形だと、私は感じた。
もちろん、「祝祷」の文言を用いない、というのもひとつの方法ではある。しかし、先に述べたように、聖書の文言を用いて祈り、互いを祝福するというのは、とても素晴しいことだ。
祈りの言葉は、本来は自由である。しかし、自分の語彙はたかが知れている。だいたい、いつも同じような表現になりがちだ。クリスチャンの世界にいると、毎回同じような祈りを聞く。「~本当に、~~本当に、~~~~本当に・・・」というふうに、何度も「本当に」というフレーズを聞いたことがあるという人も多いだろう。
別に、語彙力がなかったり、「本当に」と繰り返すのが悪いと言うつもりはない(私自身がそうなので・・・)。しかし、聖書の言葉を用いて祈れば、さらに祈りの言葉が広がる。表現が広がる。祈りが豊かになる。実際、カトリックの人や、イエスを信じたユダヤ人たちは、「祈祷文」を使って、決まった文言で祈っている。私はそれを否定はしない。私個人としては、聖書の言葉も、自分の言葉も用いて祈るのがオススメである。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちとともに、豊かにありますように」
このような表現を使って、お互いに「祝祷」してみては、どうだろうか。
以下は、私がよく祈りで用いる聖書の言葉だ。高校生の頃は、これらの聖書の言葉を印刷して、壁に貼って祈っていたりもした。また、ここに書いてはいないが、全ての詩篇は祈りに活用できる。とてもオススメなので、ぜひともアレンジしながら活用してほしい。
こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなた方の心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に。教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。
(エペソ人への手紙 3:14~21)
どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。(中略)どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。
(ローマ人への手紙 15:5~13)
どうか、私たちの父である神ご自身と、私たちの主イエスが、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない物としてくださいますように。アーメン。
(テサロニケ人への手紙第一 3:11~13)
わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を癒やし、あなたのすべての病を癒やし、あなたのいのちを穴から贖われる。主は、あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、あなたの一生を、良いもので満ち足らせる。あなたの若さは、鷲のように新しくなる。
(詩篇 103:1~5)
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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