ヨハネ福音書15章は、「イエスさまはまことのぶどうの木」という譬え話から始まりますが、そこではイエスさまと弟子たちの生命的な結びつきが語られています。続く9~17節では、弟子たち相互の関係が「愛」を軸にして論じられています。そこで使われている愛はアガペーという、言うなれば神さまが私たちに注いでくださる愛です。そして終わりの部分にきょうのテキストが位置して、話の中心が弟子たちとこの世の関係に移って行きます。要約すれば、この世は、イエスさまを憎んだように弟子たちをも憎む、というのです。「世」と訳されている言葉はお馴染みのコスモスです。
現代では宇宙などもこの言葉で表しますが、ここでのコスモスは社会とか世間と考えればよいでしょう。さて、その弟子たちの生きるこの世に、迫害という具体的な事柄が持ち出されます。イエスさまへの迫害の頂点は言うまでもなく十字架ですが、その十字架への道がいよいよ始まるということが暗示されているようです。イエスさまと弟子たちの関係がぶどうの木とその枝であるように、イエスさまが十字架への道を歩めば、弟子たちも同様の運命に見舞われるということが、それとなく語られているような気がします。
最初に提示されるのは、イエスさまとこの世の対立の図式ですが、イエスさまがこの世と対立関係にあるならば、イエスさまを頭と仰ぐ教会もまたこの世と対立関係にあるということなのでしょう。ところで、イエスさまと弟子たちの関係は特別な意味合いを持っています。何しろ弟子たちはイエスご自身が直接声をかけて選び抜かれた人たちですから、その関係は誰にでも分かるオープンな関係ではなくて、言うなれば神さまの秘儀が伝えられるような一種の秘匿性に包まれた関係です。私たちは弟子たちが世から憎まれるという言い方を通して、弟子たちに私たちの自身あるいは教会を重ねて見てもいいでしょう。
そのように見れば、弟子たちへの迫害は教会への迫害ですから、教会がこの世の真っ只中にあるということは、美しい花園や温かい温室の中にあるということではなく、氷雨が降り続くような厳しい現実の中に置かれているという意味になります。そうであるとすると、イエスさまと弟子たちの内的な交わりという絆の問題が出てきます。18節でイエスさまは『世があなたがたを憎むなら』と言われるのですが、これは「もし憎むなら」という仮定の話ではなく、ご自身の体験から出てきた言葉でしょう。
イエスさまは既にあちこちを回られる中で、数々の中傷や迫害に遭遇されて来ました。ですから、私と同じような道を進むなら、あなた方にも同じような迫害が臨むと言われるのです。キリストに従って世を歩めば、厳しい現実に遭遇することをハッキリ示されています。「憎む」と訳された言葉は「激しく憎む」という意味を含んでいまして、ヨハネが「この世とイエスさま」の対立を表現する際によく用いる言葉です。弟子たちは迫害を受けた時、「なぜ私たちはこんなに憎まれなくてはならないのか」と思うはずですが、その理由をイエスさまは、「あなた達より私が先にこの世から憎まれていたからですよ」と言われるのです。
私たちは現実の政治や社会状況に不満を持って抗議することがありますが、その際、世のすべての人が自分と同じ考えを持っているとは限りません。現実の政治に賛同する人もいるのです。その賛同している人たちは私たちを憎んだり攻撃したりするでしょう。フェイスブックなどSNSの世界では自分の主張に対して激しい言葉を浴びせてくる人がいます。そうした時、私たちは自分の感情をどのようにコントロールするでしょうか。私などはイエスさまの「あなた達より私が先にこの世から憎まれていた」という言葉に触れると、「ああ、社会とはこういうものなのだ」と納得することができます。
イエスさまがされたように、この世で弱い立場に追いやられている方たちに寄り添おうと思えば、必ず反発の言葉が返ってきます。私はそういう時の自分を支えてくれるのが、「あなた達より私が先にこの世から憎まれていた」というイエスさまの言葉だと理解しています。共通するような内容ですが、19節には『あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである』というお言葉もあります。ここでも「愛する」という言葉が使われていますが、この「愛する」はアガペーの愛するではありません。ヨハネはきちんと使い分けていまして、この「愛する」は地上的・人間的愛を表すフィレオーという言葉です。つまり、イエスさまが弟子たちを愛することとは質を異にする愛し方をこの世はしますよ、ということが表現されているのです。
それに続いてイエスさまが言われたことは『あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。』ということでした。イエスさまは弟子たちがこの世から憎まれるのは、あなたたちに先立って私が憎まれているのですよ、と言われたのですが、ここでは更に、憎まれる理由を掘り下げていると思います。それは『あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。』という一言で裏付けられます。言うなれば、これは弟子たちの存在理由です。弟子たちはこの世に生きながら、しかしこの世のものではない、という一面です。これを私たちに当てはめるならば、キリスト者とされた私たちが、自分は最終的にどんな世界に属しているのかと悩む時、神さまから与えられる回答のようなものでしょう。そしてもう一点、ではいったいイエスさまと対立し、弟子たちとも対立するこの世とはどんな世なのかという問題です。
「世」と訳されている語は最初に言いましたようにコスモスです。コスモスは新約聖書にたくさん出てくる言葉ですが、とりわけヨハネ文書では目立ちます。私たちが思い出すのは、イエスさまがポンテオ・ピラトの前で言われた『わたしの国は、この世には属していない』という一言です。国は支配という意味ですから、19節の『あなたがたは世に属していない』という表現は、究極的な権威とか支配はこの世にはない、という指摘でしょう。この場合「国」とは場所ではなく、その人の所属性を表わす言葉です。この世にはこの世的な権威があり、支配もあり、軍事力のような力もあります。国家みたいに、その人の所属を表わす場所もあります。普段私たちは、そうした自分の周囲の世界であるコスモスを意識して生きています。
しかしイエスさまは弟子たちに、「そうではない、あなたたちはこの世には属していない」と宣言されたのです。この言葉は、単純に「この世を遁れてどこか隠遁の生活に入りなさい」という意味ではないでしょう。キリスト者だけで閉鎖的な社会を作って生きるということではないように思います。もしそういう意味なら、イエスさまはわざわざガリラヤの町々村々を巡り歩いたりはしなかったでしょう。特に思い出すのは、イエスさまがそこで多くのユダヤ人たちから忌み嫌われた人たちと積極的に交わられたことです。取税人・罪人・遊女、その他「地の民」と呼ばれた最下層の人たちと交わられたことは、福音書が証ししているところです。
おそらくイエスさまが言われたことは、「キリスト者はこの世を超えた世界に属しているのだから、むしろこの世では自由なのですよ、人々の中に自由に入っていって、そこで出会った人たちと喜びや悲しみを共にしなさい」ということではないでしょうか。私たちが実際に生きる場は、間違いなくコスモスですから、キリスト者や教会はこの世に奉仕して生きるべきでしょう。2,3年前だったでしょうか、私は外キ協でもう20年近くも一緒に活動してきたカトリックの修道女である石川治子さんから一冊の本を頂いたことがあります。彼女は司教協議会社会司教委員会で働いてきた有能な女性ですが、その本は「なぜ教会は社会問題に関わるのか」という題でした。とても平易な内容で、教会が社会と関わる理由がQ&Aの形式で書かれています。
例えば、Qとして「社会問題に関わることとキリスト教の“救い"とは関係があるのですか?」とあれば、それについて300字程度で要領よく聖書を引用しながら説明してあります。神父さんたちが一所懸命に作ってくれたのだと思いますが、難解な言葉使いはまったく使われていません。よい出来栄えなので、もし皆さんが希望されるのであれば取り寄せてみようとも思っています。実は、きょうのテキストを読んでいて真っ先に思い浮かべたのはその小冊子でした。この世的な精神というのは、端的に言えば「憎しみ」の精神です。この世にとってイエスさまの存在、その言葉と行いは邪魔なのです。
世の支配者・権威者にとっては、イエスさまの存在は自分たちがやろうとしていることに対して邪魔なのです。だから自分にとって都合の悪いものを、この世は抹殺しようとします。自分を正義の基準にして、自分に仕え、自分を崇めてくれるものを愛する(フィレオーする)のがこの世です。ですから自分の非を指摘したり、不義を明らかにする者があれば、その人をこの世は憎みます。世(コスモス)における愛と憎しみは表裏一体なのです。そこで、きょうのテキスト全体を改めて眺めてみると、27節からも分かるように、憎しみに満ちたこの世で、あなたたちはイエス・キリストの愛の証人として立ちなさい、そうした証しをして生きなさいということになると思います。きょうのテキストには、コスモスに生きる人々を愛し抜き、町々村々を巡り歩いて神の国の福音を宣べ伝え、そのために十字架上に生命を捧げられた主イエス・キリストの心が鼓動として響いているように感じます。
私たちはこの世にありつつ、しかし世に流されず離れず、世から選ばれた一人としてイエスさまの愛を証しする者として立ちなさい、と使命を与えられているのです。主なる神さまが私たちに遣わしてくださる弁護者、神さまから出た真理の霊、すなわち聖霊の働きがそうした生き方を私たちに可能にする、とイエスさまは断言されています。コスモスの只中で、異邦人の中で、私たちはイエス・キリストを証ししつつ生きていくのです。迫害の予告をイエスさまがされているのは、躓く者を出さないためです。ヨハネの時代には会堂追放のような事件も起こったでしょう。考えてみれば、教会はその成立時から殉教者を出してきています。ステファノは石打ちで殺されましたし、直弟子であるヤコブが殺されたのは35年頃と見られています。パウロもペテロも殉教しました。
初期キリスト教の歴史はそれこそ迫害の受難史です。終わりに16章3節のみ言葉を心に留めておきたいと思います。『これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。』受難節も第4の主日を迎えています。もう二週間もすると棕櫚の主日です。イエスさまの受難の歩みはますます深まっていきます。ボンヘッファーの殉教は遠くの出来事ではありません。繰り返し繰り返し福音書記者は、きょう私たちが聞いたイエスさまの言葉を想起するように勧めています。祈りましょう。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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