巧妙な誘惑”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、”
巧妙な誘惑”ということについて考えてみました。キリスト教信仰において、サタンの巧妙な誘惑との戦いに関する知識と経験を深めることは、豊かな勝利の人生を送るうえで欠くことのできない大切なものです。なぜなら、天地万物を造られた神が存在すると同時に、この神に敵対するサタンも存在するからです。そして、このサタンは、クリスチャンに「巧妙な罠」を仕掛け、彼らの肉の欲、目の欲、持ち物の誇りに働きかけ、ほんの少しずつ神の道から外れさせながら、喜びを奪い取り、奉仕から遠ざけ、周りの人々をも巻き込んで人々を神から引き離そうとするのです。20世紀を代表する神学者の一人であるボンヘッファーは、サタンの巧妙な罠から逃れることについて、以下のように言っています。
われわれのうちに潜んでいる快楽への要求が、突然、激しく表れることがある。情欲は、逆らうことができないような力を持って肉体を支配する。密かにくすぶっていた火は、一度に煽られる。それが性欲であろうと、功名心であろうと、復讐心、名誉欲、権力欲、金銭欲であろうと、あるいはこの世の美しさというものに対する言い表せないような快楽であろうと、全く区別はない。今や、神を喜ぶ喜びが我々のうちから消滅してしまい、我々は被造物の中にあらゆる喜びを求めるようになるのである。・・・そして神を全く忘れさせてしまう。こうすることによってサタンは、我々を欺く。焚きつけられた情欲は、人間の思考と、人間の意志を深い闇の中に葬ってしまう。・・・・それゆえ聖書は、肉体が誘惑を受けた時に「逃れる」ことを教えている。・・・十字架につけられた方のもとへ逃れよ・・・・
かつてサタンがイエス・キリストを試みたときの巧妙な手口を思い出してみて下さい。彼はイエス・キリストに対し、一度ではなく三度の誘惑を試みました。サタンの誘惑は巧妙なだけでなく実に執拗です。ルカの福音書によれば、サタンの第一の誘惑は「飢えの状態におけるパン」という身体的なものでした。それに対して、イエス・キリストは「人はパンだけで生きるものではない」という聖書の言葉で誘惑を退けられました。第二の誘惑は、「権力と繁栄」という政治的、経済的なものでした。これに対しては、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という聖書の言葉を用いられました。第三の誘惑は、サタンの方から聖書の言葉をもって挑んできました。その意味では、この第三の誘惑は、宗教的なものであったと言うことができます。しかし聖書の言葉を間違って用いるサタンに、イエス・キリストは「あなたの神である主を試みてはならない」という聖書の言葉で誘惑を退けられたのです。
ちなみにマタイとルカでは、第二の誘惑と第三の誘惑が逆になっています。ルカはおそらく聖書の言葉を用いての誘惑こそが究極の誘惑であったと考えたのでしょう。神の言葉すら誘惑の材料になるということは、誘惑の巧妙さを如実に物語っています。だからこそ、聖書の正しい理解、解釈が大切なのです。サタンは、神に用いられようとする信仰者に誘惑を試み、巧妙な罠を仕掛けます。それは、最終的にその信仰者が神の栄光を現わす働きをできないように邪魔をするためです。そして、この巧妙な罠は、時には神のために役立っているかのような錯覚を起こさせながら人に近づいて来ます。そうやって、やがてそれがサタンの誘惑であったと気づいたときには、そこから抜け出せない状態に陥っているのです。誘惑に陥いる経験は、程度の差こそあれ、すべての信仰者が経験するものです。しかし、誘惑に陥ることを通して幸せになることなどないことを誰もが後になって気づくものです。サタンは絶対に人に幸福をもたらすことはありません。そればかりか、誘惑に陥って罪を犯すと、必ずその刈り取りが待っています。それは、「なぜあんな事をしてしまったのだろう」と必ず後悔せずにいられないものなのです。誘惑に陥らない最善の方法は、誘惑に陥る前にサタンの誘惑であることに気づくことです。サタンの誘惑には、たとえば以下のようなパターンがあります。第一に、それは霊の思いを悲しませ、肉の思いを喜ばせる。第二に、それは御言葉に反する。第三に、それは教会の秩序を壊す。第四に、それは人を悲しませる。第五に、それを隠れてしようとする。したがって、自分が一生懸命になりかけているものに、もしこのような要素があるならば、悔い改めて、速やかにそこから離れることです。さもなくば、結局は多くの時間を無駄にし、自分と人とを傷つけ、人生に再び汚点を残すことになるのです。
今日の一言: 誘惑に陥ってはならない。平安鶴田健次
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