10月の15日から18日までスイスの教会から何名かの牧師、信徒らが沖縄を訪問され、それに付き合うことになりました。これは、1年ぐらい前から、協力してほしいと頼まれていたことでした。この教会の礼拝にこの春に来られたD・G宣教師が日本での通訳をすることになっていましたが、健康上の理由から急に来ることができなくなり、沖縄では私が通訳しなければならなくなりました。最初は沖縄でのすべての日程に対して行動をともにするつもりではなかったのですが、この教会には廣石先生がおられて、月1回は説教を担当してくださることになっていますから、安心してこの教会のことはお任せして沖縄に行きました。
交流とか、対話とか、他者との出会いということについて、いろいろ考えさせられました。
スイスからのお客さんといっしょに、ちょうど1週間前の日曜日に、沖縄の首里教会を訪問し、その後、宜野湾市にある沖縄キリスト教センターで、2つの企画に参加しました。ひとつは、長寿をめぐっての講演会と対話集会でした。沖縄には100歳を越える長寿者が多いということを紹介する書物が2、3年前にドイツ語で紹介されました。そのことを知ったスイスの教会関係者が、今回、どうしてもそのことを沖縄で学びたいということで、私の知り合いの医師に講演をしていただくことにしました。その講演によると、沖縄には確かに元気なお年寄りがいるのですが、でもこの10年間、交通事故や自殺者の増加、また成人病などの影響で、長寿者の数は減少しているということでした。つまり、数字で見る限り、スイスとあまり変わらない平均寿命となっていました。というわけでせっかくスイスから来たお客さんたちとその時間をどう過ごすか、初めはとても心配しましたが、でもよい議論をすることができました。長寿といおう時間の長さが問題ではなく、クオリティ・オブ・ライフ、つまり生活の質が問題だということになり、生活の質を向上させるためにどうしたらよいかということをそれぞれの状況を踏まえて話し合うことができたからです。
そのあと、夕食をはさんで、スイスと沖縄の教会のキリスト者どうしの交流会を持つことができました。どのような交流会だったかというと、この9月にこの代々木上原教会で教会カンファレンスを開きましたが、どちらかといいうと、それと同じようなやり方でした。
海外と日本の教会の交流というと、たいていは、その国の地理、自然、、歴史の説明、また日本を含めてそれぞれの国の抱える問題点、教会の紹介や活動の報告‥‥というようなプログラムになってしまいます。その上でさらに質疑応答、また意見表明というように続きます。そのように相互に、歴史や文化、国家や教会について理解し合うことも確かに重要なのですが、それだけでは人と人とが出会うことはできません。それよりも、もっと直接的に人と人とが出会い、対話を始めることはできないのだろうか‥‥と私は沖縄の地で実際にそこにいる人々と共に生きながらずっと考えてきました。
私たちが、交流とか、対話とか、出会いというときに、情報の交換だけにとどまってしまうことが圧倒的に多いと私は思います。AさんとBさんとが対話をするというときに、お互いにたくさんの情報を相手に伝え、またその情報を相手から受け取ります。でもそうすることが出会なのでしょうか?それが対話なのでしょうか。
私は28年間、沖縄にいましたので、その中で得た情報を東京に来て語ったり、スイスの人たちに伝えることはできます。でもその情報の大部分は、書物を読んだり、新聞を読んだりすれば、誰にでも語ることのできることです。
でもこれとは異なり、その人にしか語れないこともあるはずです。沖縄の普天間飛行場の周辺に住んでいる人たちは、基地の中に何人の海兵隊員がいるとか、米軍海兵隊が世界中でどのような作戦を展開しているかというような情報をかならずしも正確に知っているわけではありません。でもその騒音がどんなに生活を脅かしているか、またどんな危険なことがあるかということを、身をもって体験しています。そういう中から語れる言葉、そしてその人の思いというものを、その人から直接、聞いて、その人を理解するということ、そしてその人の思いに答えていくことが対話であり、そういう相手と顔を合わせ、直接その人の思いを聞くことが出会いだといえます。
そこで大切なことは、自分が体験したことから出て来る自分の思いというものを言葉にして相手に伝えること、また相手の言葉を、自分の目の前にいる相手が、相手の体験の中から語っている言葉として理解することです。そのような言葉のやりとりを通してこと、出会いの体験をともにすることができるようになります。
先日のスイスとの交流会では、パソコンにつないだプロジェクターで、スイスの地図を大きく映しだし、最初にスイス側の参加者一人ひとりに、自分の出身地、また今、生活している場所などを指でさしながら、簡単に報告していただきました。大学はここで学んだとか、自分が仕事をしているのはスイスで2番目に大きな湖の近くだとか、ここには日本人の観光客が多くいるとか、そんなことを説明してくださいました。スイスからの参加者は12名しかいませんでしたから、名前があがった地域や町の名前は、数は多くはなかったのですが、こんなところに、こんな町があって、今ここに来ているこの人たちが実際に住んでいるのだと、いろいろ想像しながら話を聞くことができました。
そのあと、自由な議論が続きました。沖縄の信徒からは、今、一番の関心事である聖餐式について、スイスの教会ではどのように為されているかの質問がありました。すかさずスイスの側からは、何故、そのようなことが問題になっているのかという問いが続きました。また沖縄の米軍基地などについても、それぞれ率直に意見表明し合うことができました。通訳をしながら、こんな質問をしてもいいのかというようなハラハラする場面もありましたが、それぞれ本音で話し合うことができ、またスイスの人たちどうしがぶつかりあったり、沖縄の人たちどうしがぶつかりあったりする場面もあり、あっという間に、時間がすぎてしまいました。
おそらく誤解もあったり、消化不良もたくさんあったと思います。でもだからこそ、これからそれぞれがさらに学び合ったり、また次の機会を待ち望むことができます。わかりやすく整理された話を聞くことも大切ですが、生の声をぶつけ、ともに考え、お互いに理解を深めることはそれ以上に大切だと思いました。
そのスイスからの参加者の中に、私の以前からの友人のL牧師がいましが。彼は、牧師ですが、世代間の対話を促進するための担当者としてプロテスタント教会の研修センターで働いています。世代間の対話といっても、日本では、基本的には親と子は、生き方、考え方が違うはずがないという前提にたって考えがちで、わざわざそのようなプログラムを企画する必要があるのかということになってしまうと思います。でも実際には、親子で対話ができなかったり、ともに生きていけないことがあります。これに対してスイスの人たちは、世代が異なれば、生き方、考え方が違って当然だという前提にたって、その異質な人たちがどうやってともに生きていくことができるのかと考えているようでした。対話をしなくてもわかっていると考えるのではなく、お互いが違う存在であることを前提に対話をしようとする姿勢に学ばされました。またそのプログラムを教会が企画し、聖書を読み、祈りながら、進めていこうという姿勢に感銘を受けました。
先ほどのイザヤ書の30章の20、21節にありますように、
私たちは、背後から語られる神さまの言葉をききつつ、歩むことが大切です。
また、フィリピの29節にあるように、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」という言葉をききつつ、相手と向き合うことができるのです。 昨年10月に代々木上原教会に赴任して2回目の説教で、ユダヤ人のバレンボイムという指揮者の話をしたことがあります。バレンボイムはアルゼンチンのブエノスアイレスで生まれ、ドイツその他で指揮者、ピアニストとして活躍しています。その際に、バレンボイムとサイードの対話を紹介しました。サイードという人はエルサレムで生まれ、一時はジュリアード音楽院で学び、アラブ人でありながらもキリスト者としてアメリカで活動し、平和を訴えた人です。
このサイードもバレンボイムも私に大きな影響を与えた芸術家であり、思想家ですが、二人の対談集の中にこういう言葉があります。「アラブ人がアラブの音楽を演奏してそれを西洋人が聞く、西洋人が西洋の音楽を演奏してそれをアラブ人が聴く、これだけではモノローグを聞き合っているにすぎない。つまりそれぞれが、ひとりごとを語って、それを聞いているだけで、それでは対話にはならない。対話というのは、両者がそれぞれ相手の音楽を受け入れ、そこから新しい音楽を生み出す創造的な作業である‥‥」。
よく音楽には国境がない‥‥という言い方がなされます。しかしバレンボイムもサイードもそういう考え方はしません。違いがあるということを知り、その違いを違いとして認めないと、共通の部分も見いだせないといういことを常に語り続けています。違いを前提に、音を重ね、新しいものを創造する、そのことなしに対話は始まらないと語っています。
聖書は交流とか、対話とか、出会いについて何を語っているのかもう一度考えてみたいと思います。
第1は、私たち人間は、一人ひとり神に造られ、生かされているということです。神さまは私たち一人ひとりを、それぞれ大切な人間として見守り、支えてくださいます。誰ひとりとして、自分のほかに自分と同じ人間がどこかにいるのではありません。それぞれがかけがえのない人間として生かされています。
主イエスはその私たち一人ひとりとともに歩んでくださいます。
主イエスをよみがえらせた神さまの人を生かす力は、その私たちを結びつけ、私たちに勇気や希望を与えてくれます。私たちは聖霊に導かれて、困難ななかにあってもしっかりと立つことができます。私たちは連帯することができます。私たちは、神さまの招きによって、自分ひとりではできないこと、和解のために生き、平和を造りだすことができます。
私たちがともに力を合わせてこの地上で、歩むことができるのだということは、まさにフィリピの信徒への手紙の1章27節以下に書かれていることでもあります。パウロは、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送」るように、勧めています。その時に、お互いの違いを越えて「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦」うことが可能になるのです。「どんなことがあっても、(たとえ)反対者たちに脅されも(脅されることがあっても)たじろぐことはない」でしょう。神に支えられ、導かれて、私たちがこの地上をともに神の国に向かって歩むことこそ、私たちの、この地上での「救い」です。「これは神によることです」。
その際に、これはフィリピの信徒への手紙全体のテーマとも関係することですけれども、パウロは一つの視点を私たちに付け加えています。
それは、私たちの対話や交わりが、お互いの苦しみをともに担い合うものだという視点です。パウロは、29節で、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と書いています。
苦しみというものは、天からやってくるものではなく、地上に存在するものです。私たちの傲慢や怠慢が、私たちの罪が生み出すものです。キリストが担った苦しみは、そもそも人間の担うべき苦しみでした。
キリストのために苦しみとは、私たちのために苦しみを担ってくださったキリストを思い起こし、私たちもお互いに相手の苦しみを担い合うことです。それが私たちの交流であり、出会いであり、対話です。
お互いに情報を交換すること、相手が自分とは異なった生き方や、考え方をしていることを知ること、対話をすること、自分が相手によって変えられることを受け入れること‥‥すべて大切なことですが、それだけでなく、相手が何を苦しんでいるのかを知り、相手とともに苦しみを負うところまでいかなければ、私たちは本当に人と出会い、交流し、対話しながら歩むことはできません。
スイスにはスイスの人たちが抱える深刻な問題があり、そこでどんな人たちがどのように苦しんでいるのかを知る。沖縄にも、東京にもそういう人たちがいることを知る、そしてともに聖書を読み、神を求め、祈る、そこで他者との出会い、交わりが可能となるのです。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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