信仰の到来

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「信仰の到来」

廣石 望
創世記15,1-6;

I

 今日の聖書箇所は、信仰と律法の関係について、使徒パウロが述べている箇所のひとつです。日本語で「信仰」と訳されるギリシア語は「ピスティス」、もともと「信頼」「誠実さ」という意味です。一言で「信」と訳してよいかもしれません。他方で「律法」のギリシア語は「ノモス」、つまり「法」です。

 「信」と「法」はどちらも、私たちが生きてゆく上でとても重要です。それは、あたかも楕円の二つの焦点のようです。社会が国際化ないし多様化するとき、人間同士の社会関係を保証するのは「法」です。伝統的な常識が通用しなくなるほど社会が流動化し、ビジネスも国際的な関係の中で営まざるをえなくなった今では、法による社会関係の整備は、ますます重要になっています。

他方で、親密な家族関係や友人関係において「信頼」の要素がまったく消え去り、すべてが法律によって規定されるようになるとは思えません。信頼関係は、法的関係とは独立したものとして、相変わらず重要であり続けるでしょう。愛情が法律で規制される社会なんて想像するだに恐ろしい。それに少し考えてみると分かることですが、どれほど法の要素が強い局面であっても、相手やシステムをまったく信用できないとき、私たちは契約を結ぶことをためらうだろうと思います。

つまり「信」と「法」は、互いに補い合う関係原理として、どちらも私たちの生に不可欠なのです。

II

 他方で、パウロが「ピスティス/信」について語るとき、それは特定宗教の信仰箇条や教理に対する同意という意味では、まだありません。むしろ「信」は新しい生き方、神や人との新しい関係を示す表現です。新共同訳が「信仰が現れる」と訳すときの「現れる」の原語は「来る」です。そしてパウロは「信が来る以前」(23節)と「信が来たとき」(25節)について語ります。

 「信が来る」とは、一風変わった言い方ですね。そのとき「信」は私たちの主体的な行為というより、むしろ私たちのもとに外側から到来するもの、何かのできごとです。信が来るとはキリストが私たちに到来することで、私たちに何かが生じることを示唆しています。原始キリスト教は、キリストとの出会いを通して人々が共通して経験したできごとを一言で表現しようとして、これを「信/ピスティス」と呼んだのではないでしょうか。キリストと出会うことで、私たちに大きなできごとが生じた。それを一言でいうなら、まさに「信/ピスティス」の到来と呼ぶにふさわしいできごとだったという判断です。

 同時に原始キリスト教は、イエスをキリストとして宣教したさいに、自分たちのメッセージの中核を表わす言葉として、「エウアンゲリオン/福音」という表現を用いました。〈よき知らせ〉という意味ですね。「信」とは福音が呼び覚ますもの、つまりこの〈よき知らせ〉が人々の内側に生じせしめたできごと、宣教を通して神と出会った者たちに生じる共通の態度や生き方のことだろうと思います。「福音」によって生かされる者たちの根本的な態度、それが「信」なのです。

III

 ご存知のように、『ガラテヤの信徒への手紙』はたいへん論争的な書簡です。この教会は、パウロの開拓伝道によって生まれました。ある有力な学説によれば、ガラテヤは小アジアの中央高原地域、現在のトルコの首都アンカラがある辺りです。信徒たちは皆、異邦人出身でした。そして「教会」といっても、じっさいには家庭集会の連合のような形態であったと思われます。

 この生まれたばかりのキリスト教会に向けて、パレスティナのユダヤ人キリスト教会から対抗伝道隊が派遣されたようなのです。彼らはパウロの行う異邦人伝道とは一線を画する宣教路線を提唱していました。このユダヤ人キリスト者たちは、異邦人がキリスト教に参加する場合、割礼を受けてユダヤ教徒に改宗し、ユダヤ教伝来の戒律や習慣に従って生活するのがよいと考えていたのです。

 これに対してパウロは、「信」が到来することによって、「法」はその役割を終えたと主張します。だから律法の順守を異邦人キリスト者に要求することは時代錯誤(アナクロニズム)でしかない、というのがパウロの論点です。

IV

 では、「信が来るまで」という時間的な限定を付された「法」とは、いったい何だったのでしょうか。ユダヤ教が「法」というとき、それは神の「律法」すなわちモーセ律法のことです。

 新共同訳は「律法の下で監視され」(23節)と訳しますが、「監視され」は少々意訳で、原語は「保護する/ガードする」という意味です。「信が来る以前、私たちは法の下で保護されてきた。やがて啓示されるべき信に向けて封印されていたのだ」。

 法の本質機能は、それが該当する人々を保護すると同時に義務づけ、違反者を罰すること、つまりサポート&コントロールにあります。イスラエル民族にとって、神がシナイ山の上でモーセを通して賦与した律法、とりわけそこに含まれるたくさんの禁令は、民族が神による選びの恵みに留まり続けるために必要な〈救いのガードレール〉のようなものです。

宗教改革者ルターのパウロ解釈には、〈ユダヤ教は行為義認の宗教であり、人は律法の行いを業績として積み上げることで初めて、救いの恵みを獲得する〉という理解が含まれています。私たちも長い間、こうした見方に馴染んできました。しかし近年のユダヤ教研究は、こうしたユダヤ教の救済理解が誤解ないし偏見であることを明らかにしています。当時のユダヤ教諸派のほとんどにとって、民族の選びと律法の賦与は神の一方的な恵みによるものであり、その意味で救済は行為に先だって与えられています。その救いの恵みの中に留まるため、そこからこぼれおちないために律法が与えられているわけです。――パレスティナ地方から派遣された、パウロに敵対的なキリスト教宣教者たちも、同じような理解をもっていた可能性があります。キリストへの信仰が救いをもたらすのであれば、当然それはユダヤ教の信仰に入ることを意味しており、そのためには割礼を受けて律法の恵みの内側に入るべきなのです。

 ところが同じユダヤ教徒であるパウロは、これとはまったく違う理解を示します。彼によれば「律法」は、人が成人するまでの時期に限って保護者としての権限を発揮する「養育係」に等しい。キリストが到来して「信」のできごとが生じた今は、キリストという空間の中で生きる者はすでに成人しており、神の法(とりわけ祭儀律法)のサポート&コントロールの枠を外れるというのです。いったいどこから、このような理解が生まれたのでしょうか?

V

 興味深いのは、こうした理解が私たちの通常の考え方とは、ちょうど逆転した関係にあることです。私たちはふつう、子どもは「信頼」ベースで育ち、大人になったら「法律」に即して権利を行使したり、義務を履行したりするようになる、つまり時とともに「信」から「法」へと移行すると考えます。しかしパウロの場合、「法」から「信」へと移行します。未成年時代は「法」によって保護されると同時に義務づけられる一方で、「信」が来たならば法の保護および監視機能は失効する、というのがパウロの論法です。

 いったい「信」のどこに、そんな力があるのでしょうか? 「なぜなら君たちは、キリスト・イエスにおける信を介して、神の息子たちなのだから」(26節)とパウロは言います。「キリスト・イエスにおける信」という表現は、文法的には〈キリストへの信仰〉とは読みにくい表現です。むしろ、キリストというできごとにおいて示された「信実」と読めます。その「信実」とは、神の自己啓示に対する表現でもあるようです。――神はキリストを通して私たちとの間に、「信」という言葉で表現するにふさわしい新しい関係を開いた。そのできごとの中で、神は自らが人に対して信実な者、信頼に値する神であることを示した。

 このような理解は、「キリストに向けて洗礼を施された者は(誰も)、キリストを着たのである」(27節)という発言に、よく符合します。「着た」ないし「着せられた」という表現は、キリストという着物の製作者が私たちでないこと、またその服装をまとうことによって私たちの身分が変更されたことを意味します。その新しい身分の名が「神の息子たち」です。

 聖書には、「神の僕(しもべ)」(原義は「奴隷」)という表現がたびたび現れます。パウロも自らを「キリストの奴隷」と呼ぶことがあります。他方で「息子たち」という表現には、「奴隷」というのとは異なるニュアンスがあります。奴隷は、主人たちが生きるために必要な生産活動を行うことで義務を果たします。農耕労働から家事労働に至るもろもろの仕事がこれに当たります。これに対して「息子たち/娘たち」は自分たちが息子・娘になるために、何かをする必要があるでしょうか。何をすれば、彼らは息子たち・娘たちになれるのでしょうか。じつは何もする必要はありません。彼らは、生まれによって息子たち・娘たちだからです。「君たちは神の息子たちだ」というパウロの発言は、キリストを着ることでそのような存在に私たちがなったと言っているのです。息子たち・娘たちは神の「法」を遵守することで、神との関係を保つ必要はもはやありません。私たちは自由です。

 ちなみに「息子たち」という表現が複数形であることも覚えておいていただきたいと思います。近代のキリスト教は、〈個の自覚〉という意味で、神と自分の関係を重視してきました。しかし神の息子・娘たちはじっさいには複数です。〈信の到来〉は神と私の関係だけでなく、私と他者との関係をも一新するできごとです。

VI

 さて、それでもキリスト者が自由な神の子どもたちであるとは、彼らが何もしないでのんびり暮らしているという意味では全然ありません。パウロが属した教会の人々は、洗礼式にさいして次のように宣言したようです(28節)。

もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、
奴隷も自由な身分の者もなく、
男も女もありません。
あなた方は皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

 この宣言は、民族や社会身分そしてジェンダーの違いが、洗礼を受けた者たちにとってはノーカウントになる、という意味だと思います。

こうした普遍主義的で平等主義的な理念を、パウロがじっさいには教会共同体の内側に限定し、社会全体にまで押し広げようとしなかったことが、しばしば批判の対象にされてきました。仮に現代人がパウロのこうした態度を論拠に、教会の外にある(そしてじっさいには教会の中にもある)民族差別や社会差別あるいはジェンダー差別の現状を正当化しようというのであれば、それは許されないことであると思います。

他方で、パウロの生きた古代地中海世界にあっては、例えば社会制度としての奴隷制を全面的に廃止することなど、おそらく夢想すらできなかったに違いないのです。民族の違いには、それぞれの民族がもつ「法」の妥当領域の違いが同時に含まれたことでしょう。そうした区別の現実的な廃棄を行動プログラムとして提示することは、当時の社会で圧倒的な少数派であったキリスト教会には、およそ不可能でした。現代社会においても、例えば日本の法律は先ずは日本国籍を有する人たちに、続いて日本の領土内で生活する外国人に当てはまるものであり、よその国で暮らす外国人にまでその効力は及びません。

 そのような意味で、パウロが属した教会の人々が、たとえ共同体の内側に限定されたかたちであっても、今や「信が来た」以上、上記のような違いは有効性を失ったと宣言したことには大きな意味があると思います。彼らは「神の息子たち」という新しい身分にふさわしく生きることを目指して、極めて大胆なヴィジョンを提示したのです。

 この宣言するところを共同体の内部で実践するには、さまざまな困難や誤解を具体的に何度も克服する必要があったろうと思います。とりわけ実社会で差別される側にある人々、例えば奴隷や女性の中には、〈口先だけの理想を信じて、後で仕返しされたらどうしよう〉と考える人がいたとしても不思議はありません。他方で差別する側の人間、例えば神の律法を授かっていると信じてきたユダヤ人にとって、染みついた異民族蔑視の感情を払拭することは容易でなかったろうと思います。社会的な優者が「自分たちは差別なんかしていない」「それは君たちの誤解だ」と言うとき、彼らが差別の現実に無自覚であったり、そうした発言そのものが差別を隠蔽する機能を果たしたりすることがあるからです。

それでもパウロは、「あなた方は皆、キリスト・イエスにあって一つ(原文は「一人」)だ」と言います。彼らに到来した「信」が、この人々をしてそう言わしめるのです。私たちも、そうでありたいと願います。

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