マタイ版「山上の説教」の中には、これとほとんど同じ教えがある(マタイ6,25-34)。但し、いくつかの違いがあって、例えば、マタイでは「空の鳥を見よ」となっているが、ルカでは「カラス」だ。
「烏」は、レビ記11,15(申命記 14,14)では、禿鷲・ひげ鷲・黒禿鷲・鳶・隼などと並んで「汚らわしいもの」と規定され、食べることを禁じられていた。恐らく、死んだ動物の肉を漁ったり、生きた獲物を襲って食べたりするためであろう。だが、このような烏も神に養われている、とイエスは言う。
上原の近くにも烏がいて、家庭のゴミを集める場所に朝早くから群がっている。賢い鳥で、袋をくちばしで破り、中に入っている生ゴミを引っ張り出して食べる。住民にとってはあまり有り難くないが、彼らとすれば生きていくための知恵なのであろう。それを見ていると、「種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養って下さる」というイエスの言葉が妙に実感できる。
烏でさえ、神はちゃんと生きていくことができるようにして下さる。まして、あなたがたは彼らよりもはるかに価値のある人間ではないか、とイエスは話を続ける。
もしかしたら、「価値」という言い方に引っかかる人もいるかもしれない。人間も造られたものの一つに過ぎないのであり、価値の点では他のすべての被造物となんら変わりはない筈なのに、人間を中心に考えるのは驕り高ぶりだ、これは許されない―――この主張は、確かに正しいであろう。
それならば、人間にはこの自然界の中で「園守り」(創世記 2,15)として果たすべき役割が与えられているという点から考えたらどうか。
人間には、この自然界の「園守り」としての役割に見合うだけの多くの力、あるいは可能性が与えられている。直立して歩くことができるようになった結果、脳は他の動物とは比べ物にならないくらいに複雑に進化したし、手の働きも自由になって、様々な道具・機械を作るようになった。人間には、この能力を自由に駆使して、自分たちが生きるだけでなく、神の造られたこの世界を守り、すべての被造物を生かして行く責任が与えられている。そのために必要なものは、すべて創造主である神が備えて下さった。だから、衣食住のことであれこれ思い煩う必要はない。
これは、神の創造の業という視点からの見方である。
今日の個所には、もう一つの、終末論的観点とも言うべき視点がある。
「野原の花」に言及した所だ(27-28節)。この「野原の花」というのは、注解書によると「アネモネ」のような花らしい。紫色である。ソロモン王のような貴人がまとっていた衣も紫色である。ところが、人工的に染められた衣の色と比べると、野原に咲いている小さな花の色の方が、比べ物にならない位に美しい。「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装って下さる」(28節)。
そして、イエスは「まして、あなたがたにはなおさらのことである」と続ける。あなたがた人間は、明日も分からぬ命だが、「明日は炉に投げ込まれる草でさえ、このように装って下さる」神が、あなたがたをも装って下さらない筈があろうか。ここでイエスは、終末に直面する我々人間も神によって美しく生かされている、と言っているのだ。これが肝心な認識である。だから、衣食住のことであれこれ思い悩むな。
さて、ここで最初の方に戻る。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」(23節)とイエスは言う。
「大切である」という言葉は、元々「メガレー」、つまり「…よりも大きい」という意味である。創造主である神によって既に命が与えられ、様々な能力が与えられているという事実。また、この世の終末をもそのみ手の内に治めていて下さる神が、すべての被造物を、この限られた時の中にあっても美しく生かして下さるという事実。これは衣食住のことであれこれ思い悩む必要もないほど「大きな」事実なのだ。
「世の異邦人」なら、衣食住のことで思い悩み、それらを切に求めるかもしれない。だが、天地の造り主である神、歴史の支配者である神を信じている者たちにとって、そんなことを思い悩む必要は既になくなっている。
最後に、この教訓を語ったのがイエス・キリストであることに、注意を促しておきたい。これは、「くよくよしたって始まらない、なるようにしかならない、ケ・セラ・セラ」というような、一般的人生論、あるいは「処世訓」ではない。
この教訓は、イエス・キリストから、つまり、キリスト論的に解釈されなければならない。イエスは、神の国の福音を語り、真実な言葉と、愛の行動と、そのために血を流した生き方によって、それが現実であることを示した神の子であった。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」!
それ故に、思い悩む必要はない、と言われるのである。「小さな群れよ、恐れるな」(32節)とイエスは言う。このルカ特有の表現は、我々に深い慰めを与えるのではないか。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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