毎年この頃になると、我々の教会では先に天に召された信仰の先達(週報裏面に名簿)を記念してご遺族をお招きし、特別の礼拝を守っている。今年も懐かしい人々を思い起こしながら、共にこの礼拝を守りたい。
今日の説教テキストは、「最後の審判に関するマタイ福音書の有名な箇所である。似たような話が旧約のエゼキエル書34章にもあるので、先程、それも朗読した。そのエゼキエル書に、先ず少し触れておきたい。
ここにあるのは、主なる神が強い者と弱い者の間を裁く、という話である。強い、肥えた羊(あるいは山羊)が「良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒し、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回し(18)たり、「脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやる(21)ようなことをする。このように強者が自らの強大な力をぞんぶんに使って弱者を虐げるのは、主なる神が決してお許しにならない社会的不正である。主は両者の間を「裁いて、つまり「分離して、やせた羊を肥えた羊の暴力から守ると言われる。「わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする(22)。これが「終末の裁きだ。
マタイも同じように「終末の裁きについて語っているが、やや強調点が違う。「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く(33)というのである。パレスチナでは、大抵、羊は白く山羊は黒い。それを右左に分けるということは、文字通り「黒白を明らかにすることを意味する。白い羊は右に置かれて祝福を受けるが、黒い山羊は左に分類されて呪われる。
だが、ここで我々には注意が肝要である。「羊は白いから祝福されたとか、「山羊は黒いから呪われたというのではない。キング牧師が言ったように、人の価値は肌の色によってではなく、その品性や行動によって判断される。
その点で、マタイの書き方は誤解を招き易い。「白と「右を正しさの象徴とし、「黒と「左を悪の象徴とする捉え方は、どういうわけか、古くから人々の間に根づいて来た。日本でも「腹黒いなどいう言い方があるように、黒は悪い色だ。しかし、これは人種や性別による差別と同じように、克服されるべき偏見に過ぎない。いつまでもこのような偏見に囚われているのは愚かなことだ。
ある白人の宣教師が、アフリカのある村で良い働きをした。ある時、部族のチーフは彼を村人に紹介してこう言った。「この西洋人は、肌が白いから悪い奴だと思う人もいるかもしれないが、腹の中は真っ黒だから安心しなさい! このように、価値判断の基準はそれぞれの文化によって異なり、全く相対的なのだ。だが、今日はそのことを指摘するだけにとどめ、肝心の点に向かって話を進めよう。
「羊と山羊を分けるようにという言葉は、今述べた根拠のない偏見を前提しているわけではない。むしろ、「神には一目で分かるという程度の意味に取っておきたい。問題は、「右側にいる人たちがなぜ祝福されたのか、ということである。
その理由を、王(キリスト)はこう説明する。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ(35-36)。
ところが、彼らには全く身に覚えがない。不審に思った彼らは、「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか…(37-39)と問いただしたという。
この事情を理解する鍵は、マタイ福音書6章にあるだろう。この人たちは、「見てもらおうとして、人の前で善行をする(1)というような過剰な自意識を持たない。彼らはただ、目の前で助けを求めている人に心を奪われている。だから、「自分の前でラッパを吹き鳴らす(2)ような自己顕示などしている暇がない。あるいは、「右の手のすることを左の手に知らせない(3)。もしくは、左手が右手のすることを知らないほど過剰な自意識から解放されている。だが、「隠れたことを見ておられる(4) 父なる神は、彼らに報いて下さる。祝福を受けるのはこの人たちなのである。
今日の所(25章)に戻ると、40節に「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのであるという大変重要な言葉がある。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者というのは本来、苦労しながら福音を宣べ伝えている貧しい巡回伝道者のことだ、と考えられている。しかし、現代では、これを社会的弱者にまで広げて解釈しても間違いではないであろう。助けを必要としている人々に対して惜しみなく愛の手を伸ばす人こそ、祝福される人なのである。
反対のことが左側にいる人たちに対して言われる。「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである(45)。助けを必要としている人々に対して愛の手を伸ばすことを惜しむ人は、祝福されない。
私は、今日記念される人たちを全部は知らない。黒川輝さんから後の人々だけだ。しかし、私は確信をもって言うことができる。この人たちは、自己顕示欲とは全く縁がなく、慎ましく、傲らず高ぶらず、そして助けを必要としている人々に対して惜しみなく愛の手を伸ばす人たちであった。この人たちが祝福を受け、今や天でキリストと共にいることを信じる。この人々との交わりを許されたことを誇りに思う。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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