今、朝日新聞の夕刊に、在日韓国人作家の柳美里(ユウ・ミリ)さんが「八月の果てという小説を連載中だ。日本の植民地統治下における朝鮮の人々の生活を描いたもので、特に13、4歳で慰安婦にさせられた少女の話が痛ましい印象を残す。この子は、一見親切そうな日本人の小父さんに「日本の工場でいい働き口があると誘われ、家族にも黙って家を出る。途中、二等車(今で言えばグリーン車)に乗ったり、今まで食べたこともない豪華な食事をご馳走になったりして次第に夢を膨らませるが、目的地は思いもかけず「慰安所であった。そこでは大勢の朝鮮の女性たちが性的奴隷として働かされていた。この少女も、ナミコという日本名を与えられて働かされる。列を作って順番を待っている兵士たちの相手をしなくてはならない。言うに言えない恐怖と恥と痛み! これを、柳さんは実に生々しい筆致で描き切った。読み続けるのが辛い程だった。我々の国は、そして「天皇の軍隊は、何とひどいことをしたのだろう。
この問題に限らず、「南京大虐殺事件などに誰かが言及すると、我が国では必ず拒否的な反応が現れる。「明白な証拠がないとか、「そういうことも少しはあったかもしれないが、数はそんなに多くはなかったとか、「戦争中はどこの国もやったことだとか、「植民地支配の中でたまたま行われた小さな悪をあげつらうのは一面的で自虐的だとか、「鉄道を敷いたり工場を建てたり、日本は朝鮮や台湾を植民地にすることによって良いことも沢山やって上げたとか、そして、どこかの知事さんのように、「そもそも、植民地にして貰いたいと願ったのは朝鮮の人たちだったとか。こういう考えの人は、学者にも少なくない。
だが、これらはすべて「言い逃れである。むろん、これは日本人だけに特有の性質ではない。人種・性別・年齢を問わず、すべての人に共通の、いわば「原罪である。子供が何か悪いことをして叱られると、必ず言うではないか。「僕だけじゃないよ、○○ちゃんだってやってるよ。
このような「言い逃れは、聖書の昔から存在する。「楽園追放の物語では、神の追及を受けたアダムは、自分が罪を犯したのはエバが誘惑したからだと言い、神の厳しい視線をエバの方に向け変えようと企てる。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました(創世記3,12)。しかもここには、「神様、元はと言えばあなたの責任ですよと神に逆捩じを食らわせようとする意図すら見える。この責任転嫁が言い逃れの本質であって、エバもまたこの根源的な傾向を免れない。彼女は言う。「蛇がだましたので、食べてしまいました(13)。
しかし、他者に責任を転嫁して自らを正当化しようとしても、神の前でそんな言い逃れは通用しない。「主なる神の顔を避ける(8)ことは不可能なのである。
先週、私は戦後ドイツの教会が発表した「シュトウットガルト罪責宣言についてやや詳しく述べ、一方ではそれを評価しながら、そこにも「言い逃れの傾向が潜んでいることを指摘した。「ナチズムの悪と戦いはしたという言い方や、「言い訳がましい比較級などがそれである。今日は、そのことをもう少し掘り下げてみたい。
この宣言は、当時ドイツ教会との和解を求めてシュトウットガルトを訪問していた「世界教会協議会(WCC)代表団の前で読み上げられたもので、その時点では一般に公表されなかった。ところが、一週間後にキール(北ドイツの港町)の一地方新聞がこれをスクープしたのである。すると、国民の間から批判の大合唱が起こった。「悪いのは何もドイツだけではないというのである。「確かにドイツは戦争を始めた。それにも理由がないわけではないが、残虐行為と言うなら、45年2月のドレスデン空襲はどうだと彼らは言った。当時、無数の避難民が流入していたこの無防備都市を米英の空軍が徹底的に爆撃して、広島に匹敵する位の死者を出したことは周知の事実だった。人々はさらに言いつのった。「ソ連軍がベルリンに殺到したとき、兵士たちは略奪・暴行の限りを尽くした。この非人道的犯罪はどうなるのだと。
この反応に、ドイツ福音主義教会の指導部は次第に弱腰になる。中でも「罪責宣言の起草者の一人であったハンス・アスムッセン牧師は、批判を躱すための言い訳めいた文書を公表した後、翌46年の夏になると、「戦勝国の罪責に関するリポートを書いて連合国側の罪責を数え立て始め、さらに11月にはドイツ人に対する「赦しの宣告ともいうべき文書を公表した。「罪責宣言の風化が始まったのである。
パウロは「ローマの信徒への手紙2章で、他人を裁くユダヤ人を問題にしているが、その冒頭でこう言う。「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている(1)。この「人を裁く者という言葉の意味は単純ではないであろう。私の解釈では、自分も罪を犯していることを知りながら、神の裁きの矛先を自分から逸らして他者に向けようとする者のことではないだろうか。それによって「主なる神の顔を避ける(創世記 3,8)ため、つまり、「神の裁きを逃れる(3)ためである。これが言い逃れである。
だから、パウロは続けて言う。「自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。否、逃れることはできない。弁解の余地はないのである。言い逃れは、「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くこと(4)を否定することに他ならない。このことを我々は肝に銘じなければならない。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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