「イエスのように愛そう」ヨハネ13:31-35 中村吉基

詩編148;ヨハネによる福音書13:31-35

詩編148;ヨハネによる福音書13:31-35

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)

今朝は主イエスがいわゆる最後の晩餐の席上でお話になったメッセージから共に聴きました。このメッセージは「別れの言葉」でもありますし、「遺言」でもあります。

皆さんの中で、もうすでに遺言を書いておられる方があるかもしれません。もし私たちが、今遺言を書かなければならないとしたら、どのようなことを書くでしょうか? きっと遺される人に伝えておかなければならない、大事なことを伝えるのではないでしょうか。

主イエスもそうでした。主イエスの公生活はたった3年ともいわれますが、そんなに長くない期間でした。その中でご自身が人びとに伝えたかったことを余すことなくお語りになりました。その一部が、今日のヨハネによる福音書の箇所ですし、そこには「新しい掟」として「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」との生き方を授けられるのです。

「愛」や「愛する」ということは人から強制されてそれをするのでなく、個々人が自然な心の動きというか、自然に心の底から「愛そう」「愛し合おう」という心が湧きあがるものですから、愛が「掟」だというのはおかしいのではないか、と思うかもしれません。この場合の掟というのは、強制や義務というのではなく、私たちが日々の生活を送っていくにあたって最も大切にしなくてはならないこと、信条とか基本原則とか・・・・・・そのように捉えたら良いでしょう。主イエスは言いました。主イエスが居られなくなっても、弟子同士「互いに愛し合いなさい」。それが大切なことなのだと強く仰せになるのです。

「互いに愛し合いなさい」。弟子たちの中で愛を実践する。現在の事柄に置き換えてみるならば、教会に集っている者たちだけが愛し合うというならば、それは閉鎖的、独善的な感じがしないでしょうか。けれども、このヨハネによる福音書が書かれた時代背景には「イエスを救い主と信じる人びとの群れ」と「なかなかイエスを受け入れない世間」とのギャップがありました。ですからせめて仲間内では愛し合おう、と言っているのかもしれないのです。しかし、皆さんもすでにご存知の通り、主イエスの教えに、人を分け隔てすることがあったでしょうか。あまり内向きの愛を考え過ぎないほうがよいでしょう。

また「互いに」というのは、一方的に「私はこんなに愛しているのに……」と、さも愛の量を量ることができるかのように「愛する」のではなく、自分が愛される存在になるということも、私たちに豊かな理解を拡げてくれるのです。私たちは人から愛される・大切にされることによって、それまで見えてこなかった何かが見えるようになる、感じるようになるということを経験したことはないでしょうか? そのようにして愛すること、愛されることが私たちをもっともっと豊かにしていくのです。愛というのは相手がいないことには成り立ちませんから「双方向の愛」が主イエスの教える「新しさ」なのです。これが「新しい」掟と言われる所以なのです。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」

主イエスは徹底的に、時には激しく一人ひとりの人間を愛しました。その中には今まで社会の片隅に追いやられていた病人や「しょうがい」者、物乞いや徴税人など職業柄、「汚れた」存在とされていた人びと、女性や子どもたちなど一人前には扱ってもらえなかった人びとなど、さまざまでした。そして主イエスが指さして人びとに示された優しく、柔和な神は、今日ここにいる私たちをも愛してくださっています。私たちは聖書の記述によって主イエスがどれだけ人びとを愛されたかを知っていますし、この席上にいた弟子たちはそれを目の当たりにしていました。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。というのは、主イエスの愛を受けた私たちは、主イエスのように愛することができる。もう私たち一人ひとりの内には、主イエスの愛を知ったその瞬間から、主イエスのように人を自由に愛することができるし、愛されることもできるのです。私たちの内にはもうすでにキリストの愛の種火が授けられているのです。

聖歌にこういう歌詞の歌があります。

キリストのように考え
キリストのように話し
キリストのように行い
キリストのように愛そう

(典礼聖歌390番「キリストのように考え」より)

実際の私たちの普段の生活の中では、来る日も来る日も自分のことで精いっぱいで、愛し、愛されるということが程遠く感じられてしまう人がいるのでないでしょうか。また実際に人を愛するということの難しさを感じている人も多いのではないでしょうか。しかし、私たちは日々、職場や地域や家庭や、そして教会でも人とのかかわりがあり、かかわりのない人とも駅や電車の中や買い物途中などいろいろなところで無数の出会いをしています。いったい私たちは一日にどれだけの人と行き交っているのかと思うくらいですが、やはりその中で互いに神からいのちを与えられて生きている存在として、「大切に思いやる」この人を「大切にしよう」「心の底から思いやろう」とすることが愛することなのです。もし愛するということに重荷を感じるかもしれません。でもそれは人を大切に思いやることなのだと改めて考えてみるとよいでしょう。

仏教の教えに「無財の七施」というものがあります。その七施の一つに「和顔施(わがんせ・わげんせ)」という言葉があります。いつもなごやかで穏やかな顔つきで人や物に接する行為です。そしてもう一つ「愛語施(あいごせ)」文字通り優しい言葉、思いやりのある態度で言葉を交わす行いのことです。この七施は他にも「眼施」(慈しみ深いまなざしを向ける)などがある教えですが、何か主イエスの行いを彷彿とさせる教えが並ぶのです。私たちも愛することをするために何も持たなくてもいい、つまり「無財」、何か特別の訓練も必要としない。いつも和やかな顔つきや優しい言葉を掛けることに大きな努力は必要がないのではないでしょうか。皆さん一人ひとりのほほえみが、優しい言葉が愛すること、愛されることにつながって行きます。

戦後の東京で活躍をした北原怜子さん(さとこ)さんというカトリックの女性がいました。その頃、職もなく、住む家もない人々が隅田川の言問橋の近くに集まって、「蟻の会」という共同体を作り、廃品回収で生計を立てていました。その町は「蟻の町」と呼ばれて、ゼノというポーランド人の修道士がたびたびその町の世話をしていました。大学教授の娘で、恵まれた家庭に育った北原怜子さんさんはゼノ修道士から蟻の町の話を聞き、そこに出かけるようになり、献身的に学校に通えない蟻の町の子どもたちに勉強を教え、その世話にあたりました。怜子さんは次第に持てる者が持たない者を助けるという姿勢に疑問を抱くようになり、自ら「バタ屋」となって廃品回収を行うようになりました。また、しかし怜子さんはいつしか結核を患い、静養のために蟻の町を去りました。

蟻の町のあった場所は今の墨田公園の一角にあたり、当時東京都は何度も蟻の会に立ち退きを求めてきました。蟻の町を存続させるために、当時の蟻の会の人々は、教会を建てると言って、建物の屋根に十字架を取り付け、新聞にも取り上げられました。そのころから怜子さんの名は「蟻の町のマリア」として知られるようになりました。有名になった蟻の町に対して、都は代替地として「8号埋立地」(現在の江東区潮見)を提示しましたが、都が示した条件は蟻の会にとっては厳しいもので、交渉は難航しました。

一時蟻の町を離れて、病気療養をしていた怜子さんは病状が悪化し、これ以上治療方法がないと分かったとき、蟻の町に戻ることを希望しました。十字架が立った建物に近い小部屋に住み、蟻の町のためにひたすら祈り続けました。
1958年1月19日、怜子さんの祈りが神に通じたかのように、都が蟻の会の要求を全面的に認め、蟻の町の「8号埋立地」への移転が決定しました。しかしその直後、北原怜子さんは1月23日に28歳の若さで息を引き取りました。

死後、怜子さんの枕の下から小さいノートが出てきました。病床でときどきそっと開いていたノートで、開いてみると、そこにはたった一言「あなたは今ほほえむことを忘れていませんか」と書いてあったそうです。高熱にうかされた病床でも、つねにほほえみを失わなかった怜子さんでしたが、怜子さんとて人の子、どんなにか人恋しく、また病もつらく、泣きたいときもあったと思われます。そんなとき、そっとこのノートを出して、自分を問いただすという厳しい努力の上にほほえみがあったのです。

今日の箇所の終わりの35節に「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とあります。私たちは洗礼によって主イエスに結ばれました。主イエスの仲間となりました。主イエスの弟子となりました。そのイエスの弟子としての証しは、私たち一人ひとりの生き方によってわかるのだとこのみ言葉は教えています。私たちがどれだけ教会に長く通っていても、どれだけ熱心に聖書を学んでいても、イエスの教えにかなった生き方をしていなければ真実ではないというのです。それは主イエスが十字架にお架かりになる前に切に弟子たちに望んでおられたことでした。イエス・キリストは愛し合う人びとの中に、愛に満ちた共同体に共に生き続けておられます。

(北原怜子さんついては東京・カトリック潮見教会のホームページを参照しました)

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