聖書のグランドナラティヴ再考(2)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

前回の記事では、聖書のグランドナラティヴを次のような7部構成で考えることを提案しました:

A 創造
 B 悪の起源
  C 神の民(イスラエル)
   X イエス・キリスト
  C’ 神の民の刷新(教会)
 B’ 悪の滅び
A’ 創造の刷新

さて、この7部構成が従来の6部構成(1.創造、2.堕落、3.イスラエル、4.イエス、5.教会、6.新創造)と違う点は、6番目の要素(集中構造で言うB’)として「悪の滅び」を追加したことです。「悪の滅び」とは、キリストの再臨、最後の審判、そしてすべての悪への最終的勝利を含みます(1コリント15章23-28節、黙示録19-20章など)。もちろん、これらの要素は終末論的成就の一部として、従来のグランドナラティヴ理解にも含まれています。これを独立した一つの要素としたのには、二つの理由があります。

第一には、新約聖書に描かれている悪の滅びは、教会時代のたんなるクライマックスではなく、イエスの再臨というできごとによって特徴づけられる、ユニークなできごととして描かれています。しかもそれは新天新地の創造そのものではなく、その準備段階であるという意味で、被造物世界の刷新とも区別されるできごとと言えます。したがって、この一連のできごとに独立した章を割り当てることは許されるのではないかと思います。

さらに、この第6章が集中構造の第2章(悪の起源)に対応している点も重要です。通常、聖書のグランドナラティヴを考える時、この部分は創世記3章のアダムとエバの物語と結びつけて、「堕落」と呼ばれることが多いです。確かに、人間が罪を犯して神に反逆し、神から離れてしまったできごとは、聖書のグランドナラティヴの中で欠くことのできない重要な要素です。しかし、それだけではないように思います。

そもそも、創世記3章の堕落物語に最初に登場するのは、アダムでもエバでも神でもなく、神に敵対し、アダムとエバを誘惑する存在としての「蛇」です。つまり、この物語では、人間が罪を犯して神に反逆する前に、すでに他にも神に背いた存在がいたことが前提されているのです。

旧約聖書はくりかえし、神に敵対する超自然的な勢力について語っています(たとえば創世記6章1-4節、詩篇82篇、イザヤ24章21-22節、ダニエル10章13、20節など)。新約聖書ではそのような勢力を率いる存在としてサタンが強調されており、パウロの手紙でも「主権」や「力」と呼ばれる、神に敵対する超自然的存在が重要な役割を果たしています。

つまり、神が最初に創造された世界は完全によい世界でしたが(創世記1章31節)、どこかの時点で世界に悪が生じました。そしてそれは人間だけの問題ではありませんでした。悪の起源についてここで詳しく論じることはしませんが、ここで述べたいポイントは、人間の堕落は被造物世界における、より大きな神への反逆、悪の起源という問題を背景としてとらえなければならない、ということです。

終末における「悪の滅び」を考える際にも、この「第2章」が人間だけでなく天使的存在も含めた、より大きな範囲の被造物の反逆であったという前提で考えることが大切です。イエスの再臨から新天新地までの間に起こる一連のできごとは、人間のさばきと罪の問題の最終的解決というだけではありません(それはもちろん中心的な重要性を持っていますが)。それはサタンを頭とするすべての悪の勢力のさばきというコンテクストの中で考えなければなりません。たとえば、黙示録では、人間のさばき(20章11-15節)は、サタン・反キリスト・にせ預言者という、いわゆる「悪の三位一体」のさばき(19章20節、20章10節)と結びつけられていますし、マタイ25章では、再臨のキリストがさばきを受ける人間に対して、「のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ」(マタイ25章41節)と語っています。ですから、グランドナラティヴの第6章で起こることは、人間の最終的なさばきと救いだけでなく、すべての悪に対する最終的勝利なのです(1コリント15章23-28節)。

ところで、どのようなナラティヴでも、何らかの対立あるいは問題が生じて、それが解決される、という形でプロットが進行していきます。

導入→問題の発生→問題解決の試み→問題の解決→結末

聖書のグランドナラティヴにおける主要な問題は、神が創造したよい世界(A)に悪が生じたことです(B)。それは人間の堕落も中心的なものとして含まれますが、それだけにとどまらない、宇宙的なスケールを持った問題です。その結果人間が神から切り離されただけでなく、被造物世界全体が「虚無に服した」のです(ローマ8章20節)。

神はこの問題を解決するため、人類の救済と世界の回復を計画されます。それは地上における神の民を通してなされていきます(C→C’)が、その中心にあるのはイエスの十字架と復活です(X)。教会の時代が終わる時、キリストは再臨し、人間だけでなくすべての被造物における悪の問題が最終的に解決されます(B’)。その結果、神はいっさいの悪が存在しなくなった新天新地において、永遠に王として統治されるのです(A’)。これを最初の図式に当てはめると、つぎのようになります:

A 創造 [導入]
 B 悪の起源 [問題の発生]
  C 神の民(イスラエル) [問題解決の開始]
   X イエス・キリスト [問題解決の決定的転機]
  C’ 神の民の刷新(教会) [問題解決の拡大]
 B’ 悪の滅び [問題の最終的解決]
A’ 創造の刷新 [結末]

このように考えると、世界の問題に対して神が与える最終的解決(B’)は、もともとの問題(B)に対して、その意味合いや規模において見合ったものでなければならないということが言えると思います。このような7章構成の理解は、聖書における人間の堕落と救済を軽視しているものでないことを強調しておきたいと思います。人間の堕落と救いは聖書の中心的な主題です。しかし、それだけで留まってしまうなら、聖書ナラティヴの豊かな内容を矮小化してしまう危険性があると思います。聖書のドラマは、人間だけでなく、すべての被造物が関わる、壮大なストーリーなのです。

聖書のグランドナラティヴのストーリーラインについては、どのような視点から見るかによって、いろいろなとらえ方があっていいと思いますが、今回提案した7章構成の集中構造が、聖書を読む際の一つのヒントとなれば幸いです。

*     *     *

(付記:各部の意味づけは最終的に違うものになりましたが、イエス・キリストを中心とした7部構成として聖書のグランドナラティヴを考えるというアイデアは、最初私の妻との個人的な会話の中で与えられたヒントに基づいています。このような考察のきっかけを与えてくれた妻に感謝しています。)

2017.9.3追記:本記事の投稿後に、Jackson Wuのブログで、聖書のグランドナラティヴについて同様の提案がなされていることを知りました(こちら)。そこでは、私のモデルと同様、聖書のグランドナラティヴが対称的な集中構造でとらえられ、イエス・キリストがその中心とされています。けれども、各部の捉え方は異なっています。Wuのモデルは9部構成で、私のモデルよりはイスラエルの歴史により重点を置いたとらえ方と言えます。私のモデルはより宇宙的なスケールの悪の問題とその解決を強調しており、また各要素の区分けはライトらのモデルに近いものです。このような違いはありますが、私と同じように聖書のグランドナラティヴをキアスムス的にとらえようとする試みが他にもあることを知って嬉しくなりました。Wuの記事はキアスムスの働きについて非常に参考になる考察がなされていますので、英語が読める方は一読をお薦めします。

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