この世でよそ者として生きる(リチャード・ヘイズ教授講演より)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

5月5日(金)に開かれた北東アジアキリスト者和解フォーラムに参加しました。このフォーラムは米国デューク大学の神学部と和解センターのイニシアティヴで始まったもので、今回が7回目になります。私自身は、韓国済州島で開催された昨年のフォーラムに続いて2回目の参加となります。今回は新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、半日のみのオンラインでの開催になりましたが、多くの発見や励ましを受けました。

フォーラムには、日中韓米から招待された約150名以上のキリスト者が集いました(オンラインだからこそ参加できた人々も多く、参加者は例年より大幅に増えました)。参加者はカトリックやプロテスタントの聖職者や学者、パラチャーチ活動家、学生などさまざまで、非常に多様な顔ぶれであるのが特徴です。

今回のフォーラムでは、世界的に著名な新約学者である、デューク大学のリチャード・ヘイズ名誉教授が講演をしてくださいました。私はこれまでヘイズ博士の学問的業績に大いに啓発されてきただけでなく、何年か前に来日された際には、立ち話程度でしたが個人的にお話しする機会も与えられたこともあり、今回の講演を楽しみにしていました。この何年か膵臓がんと闘病されてこられましたが、今回Zoomの画面を通してお元気そうな姿を見ることができて感謝でした。

この講演のタイトルは「外国人嫌悪・憎悪の高まり・COVID-19の時代における和解の務め The Ministry of Reconciliation in a Time of Xenophobia, Rising Hostility and COVID-19」です。この話のキーワードはxenos(クセノス)というギリシア語です(複数形はxenoi)。これは「外国人」「よそ者」という意味です。ここから英語のxenophobia(外国人嫌悪)という言葉が由来しています(phobosは文字通りには「恐れ」)。外国人、あるいは「よそ者」への恐れや嫌悪は、現代の世界にも広く見られ、特に新型コロナウイルスの蔓延によってさらに強まってさえいるのが現状ですが、ヘイズ教授によると、それは初期キリスト教徒たちにも無縁ではなかったといいます。それどころか、この世にあって「よそ者」であることは教会のアイデンティティであった、といいます。

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人(クセノイ)であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。(ヘブル11:13)

初期キリスト教会はこの世(具体的にはローマ帝国)において「よそ者(クセノイ)」でした。けれどもさらに注目すべきは、主イエスご自身が「よそ者(クセノス)」としてこの地上を歩まれたことです。

あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人(クセノス)であったときに宿を貸し、・・・(マタイ25:35。38、43-44節も参照)

したがって、教会がこの世で「よそ者」であるのは不幸な偶然ではなく、イエスの足跡をたどる歩みそのものであり、教会のアイデンティティの中心にある、ということができます。教会はよそ者であることに付随するあらゆる苦しみをイエスとともに耐え忍ぶのです。

そして、「よそ者」である教会は同時に、「よそ者」を愛するように召されている、とヘイズ教授は指摘します。新約聖書には「よそ者xenos」(「旅人」とも訳される)をもてなすことが教えられています。そこで使われるギリシア語はphiloxenia(フィロクセニア)です(ローマ12:13、ヘブル13:2)。これは文字通りには「よそ者を愛する」ということですが、キリスト者は自分自身がこの世でよそ者であるからこそ、よそ者に対して心を開き、愛を持って接していくことが新約聖書では教えられています。(講演後の日本人参加者のグループディスカッションでは、「もてなしの神学」の必要性が語られていました)。

そして、このような姿勢こそ、外国人嫌悪がウイルスのように蔓延している現代世界において教会に求められるものなのです。ヘイズ教授は新約聖書の指し示すヴィジョンが本質的に自民族中心主義やナショナリズムを乗り越えていくグローバル志向のものであることを指摘しました。それこそ、教会が歩むべき道なのです。

ここからは私の感想になります。教会がこの世で「よそ者」であることをアイデンティティに置き、しかもそれによって自分たちだけのゲットーに閉じこもるのではなく、かえって自分たちとは異質な「よそ者」(他者)を愛しもてなしていくべきである、というヘイズ教授のメッセージには心から同意しました。そして、今日の私たちはこれをどう受け止めるべきかを考えました。

私たちにとっての「よそ者」は誰でしょうか? それは外国人でしょうか、異なるジェンダーの人々でしょうか、異なる世代でしょうか、あるいはライフスタイルや価値観、思想(宗教や神学も含む)が異なる人々でしょうか? いろいろと考えることができると思いますが、具体的に自分たちにとっての「よそ者」が誰であるかを認識し、その人たちに対して心を開き、手を差し伸べていくためには、自分の内側にあるさまざまな偏見や差別を取り除いていく必要があると思います。(この意味で、人種差別や女性差別に関する最近の投稿とつながってきます)。

同時に、私たち教会は、たとえこの世の側からは「よそ者」と見られていたとしても、自分たちの側からは、究極的にはこの世を「よそ者」と捉えるのではなく、愛すべき隣人・同胞として見ていくことが必要なのではないかと思いました。イエスもこの世で「よそ者」であったと書かれていますが、他の箇所にはこのように書かれています:

彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。(ヨハネ1:11)

イエス・キリストはこの世で「よそ者」として生き、「よそ者」として殺されました。けれども、この世は主にとっては「よそ者たち」の世界ではありませんでした。それは「ご自分のところ」、「ご自分の民」だったのです。だからこそ、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネ3:16)のでしょう。教会もこれと同じ視点を持っていくべきではないかと思わされました。

ヘイズ教授の講演ではこの他にもたくさんのことが語られました(終わりの方で、イースターについての素晴らしい詩の朗読もありました)が、特に私の心に残ったポイントをお分かちしました。この講演の全体はYouTube上で公開されていますので、興味のある方はそちらを御覧ください:

 

例年のフォーラムでは参加者が一週間寝食をともにして、歴史的に重要な場所を訪ねる「巡礼」の時を持ち、単なる学問的議論を超えた深い人格的交わりを持ちます。今回はオンライン、また半日のみの開催という制約により、他の参加者の方々とゆっくりと交流を持つ時間が取れなかったのが心残りですが、次回に期待したいと思います。それでも、ウイルスによって世界が分断されているこの時期にフォーラムを持つことができたのは、非常に大きな意義があったと思います。準備に携わってくださった関係者の皆様には、心から感謝を申し上げます。

昨年の済州島のフォーラムで訪れた4・3平和公園

 

 

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