悪魔の解釈学(2)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
(1コリント1章22-24節)

(その1)

前回は1980年代アメリカにおける反ロック/メタル運動において、しばしば作品の内容が大きく歪曲して解釈されたことを見ました。けれどもその一方で、ヘヴィーメタルの歌詞やアートの中に悪魔のイメージが頻繁に登場するのは確かです。「神がデスヴォイスで歌うとき」の第5回では、多くの場合それは商業的理由によるものだったということを書きました。悪魔的イメージを売り物にしているメタルミュージシャンがかならずしも本物の悪魔主義者であるわけではありません。じっさい、無神論者のミュージシャンが北欧神話を題材にした歌詞を書いたりすることもあります。ですから、歌の歌詞とミュージシャンの個人的信条はかならずしも一致しないのです。

さらに、ポピュラー音楽のリスナーも、一般に歌詞の内容をそれほど気にかけているわけではありません。Weinstein によると、流行に乗って消費されるポップスとは異なり、よりシリアスなファンの多いヘヴィーメタルのリスナーは歌詞の内容により注意を向ける傾向があるそうですが、それでも、歌詞を知っている(暗唱できる)ことと、その内容を深く理解しているかどうかは別の問題です。いずれにしても、音楽であれ小説であれ映画であれ、人が見聞きした作品の世界観をそのまま信じ込むというのは、あまりにもナイーヴな考えです。

けれども、そもそもなぜメタルでは悪魔のイメージが好んで用いられるのでしょうか? このことを考えるためには、メタルというサブカルチャーの社会における位置づけを考える必要があります。

英米でヘヴィーメタルが登場してきたとき、そのサブカルチャーは社会の中でも下層に位置する人々によって形づくられてきました。その中核となったのは、労働者階級の若い白人男性だったのです。その後メタルが広まっていくにつれ、その音楽やライフスタイルは社会のより幅広い階層に受け入れられていくようになりますが、ブルーカラーの若い白人男性が社会の主流派、体制、権威といったものに対して持っている「反抗」「異議申し立て」という精神は、引き続いてメタル文化の中核であり続けたのです。

つまり、メタルというサブカルチャーを支えていた人々は、社会から何らかの形で疎外され周縁に追いやられていた人々(あるいは彼らに共感を覚える人々)が多かったということです。彼らは社会の支配的階層の人々からは、粗野で無教養で罪深い存在――要するに「不良」――という烙印を押され、見下されていました。メタルコミュニティはそのようなネガティヴなレッテルを逆手にとり、むしろそれを誇示することによって、自らのアイデンティティを確立し、体制派への反抗を試みました。Weinsteinの表現を使えば、彼らは「誇り高き賤民 proud pariahs」となったのです。

そのような中で、「悪魔」は彼らの反抗の中心的シンボルの一つとなりました。なぜなら、悪魔は欧米で支配的だったキリスト教文化の価値体系の中でもっとも否定的な価値を持つとされる存在だからです。ヘヴィーメタルのコミュニティは悪魔的イメージを用いることで、「敬虔なキリスト教徒」を自認する社会の主流派の人々にショックを与え、自らのサブカルチャーの存在意義を主張しました。彼らにとって「サタン」とは、まさにそのヘブライ語の原義にあるように「敵対する者」だったのです。社会の「良識ある人々」が彼らを悪魔呼ばわりすればするほど、彼らは自らのアイデンティティを強固なものにしていきました。

1980年代アメリカの典型的な白人の中流家庭を想像して見ましょう。福音派のクリスチャンホームに育った十代の男の子が、親の支配とコントロールに異議申し立てをする一つの方法は、ヘヴィーメタルのレコードを買ってきて大音量で鳴らすことでした。アグレッシヴな音楽と「悪魔的な」歌詞、そしてアルバムアート(CD以前のアナログレコードの場合は、そのサイズによる視覚的インパクトも大きかったと思われます)、そのすべてが親を逆上させました。なぜなら、それらは親の世代が軽蔑する労働者階級のテイストを表していたからです。彼らの子どもがそのような「低俗な」音楽に夢中になっていることは、彼らが社会的に没落していくかもしれないという恐れを引き起こしたと思われます。1980年代のアメリカでメタルを悪魔の音楽として攻撃した急先鋒が、このような親の立場を代表するPMRCやPTAだったことは偶然ではありません。

これはメタルが初めてのケースではありません。アメリカにおける大衆音楽批判はつねに政治的動機が背後にありました。Weinsteinは黒人音楽にルーツを持ち、白人の若者にも支持されてきたジャズやロックが、支配的白人層から疑惑の目で見られてきたことを指摘しています。つまり、大人たちは黒人文化が白人の若者に影響を与え、それによって白人と黒人が混じり合ってしまうことを恐れていたというのです。大衆音楽批判の背後には、人種差別的偏見がありました。そして逆に白人の若者たちは、親を怒らせるような黒人文化にのめり込むことで、反抗していったのです。

人種的偏見に満ちた1950年代アメリカの反ロック・プロパガンダ

繰り返しますと、ヘヴィーメタルで悪魔のイメージが用いられているからといって、それはただちにミュージシャンやファンがじっさいに悪魔の存在を信じているとか、悪魔礼拝をしているということを意味するわけではありません。彼らは必ずしも神やキリストを否定していたわけではありませんでした。

むしろヘヴィーメタルのサブカルチャーでは、「悪魔」というシンボル(あるいは「悪」「死」その他の否定的イメージ)は、支配的文化の価値体系を逆転したものだったのです。社会の支配階層から悪魔呼ばわりされていた人々は、それを逆手にとって悪魔のシンボルを強調することにより、抑圧や疎外に抵抗する武器としました。Weinsteinはニーチェの用語を用いてこれを「価値の転換 transvaluation」と呼び、「ヘヴィーメタルは文化的対処メカニズム」だったと述べています。(じつは同様の価値の転換がもっと以前にブルースにおいても起こったと思われますが、これについては今は触れません)。

私はすべての反抗は素晴らしいと言っているわけでも、すべてのメタルミュージックを無差別に受け入れるべきだといっているのでもありません(ノルウェーのブラックメタルのように、反キリスト教思想を根本に据えているようなものもあります)。けれども、ヘヴィーメタル(だけでなく、大衆文化一般)における悪魔のイメージを考える時には、その表面上のショッキングな表現の背後にある意味(社会的関係等)をじっくりと考える必要があるのは確かです。教会がそうする努力を怠って見当違いなメタルバッシングをし、人々をサタニスト呼ばわりするなら、そのサブカルチャーに生きる人々との溝をますます深めることになってしまうでしょう。

これはアメリカと異なる歴史背景と社会構造を持つ日本でも無関係ではないと思います。たとえば「悪魔的な」音楽に熱中している子どもは、本気でオカルトに興味を持ったり悪魔礼拝をしようとしているのではなく、ただ親の権威に反抗しようとしているだけかもしれません。それに対して、親が「そんなのは悪魔だ! すぐ捨ててしまいなさい!」と叫んだとしても、問題の本質を見誤っているなら、何の解決にもなりません。親は子どもがどのような「価値の転換」を行おうとしているのかを見定め、その気持ちを受け入れた上で子どもに接していくべきでしょう。あるいは、メタルファッションに身を包んだ若者が教会を訪れたときに、教会の人々は「それは悪魔的だからやめた方がいい」と言うよりも、まずは彼らが何に傷つき何を求めているのかに耳を傾けていくことが必要なのではないでしょうか。

*     *     *

ところで、上で述べたような価値の転換は聖書の中でも起こっています。その頂点はイエス・キリストの十字架です(同様のことをReinhold Niebuhr や James Coneも語っています)。十字架刑はローマ帝国におけるもっとも残虐な処刑方法で、十字架につけられるということは当時のローマ社会で最大の恥辱とされていました。さらに、ユダヤ人は「木にかけられた者は神にのろわれた者」(申命記21:23)という聖書の言葉に基づいて、十字架刑を忌み嫌いました。ナザレのイエスが十字架につけられて殺されたのは、そのような最悪のできごとだったのです。

ところが、最初期のキリスト教会は、イエスの十字架を最高に価値のあるできごととして称賛しました。パウロは次のように語っています。

キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。
(ガラテヤ3:13-14)

ここではまさに価値の転換が起こっています。それはユダヤやローマの支配階層には理解できないことでした。実際、キリスト教は「十字架につけられた男を神として礼拝するおかしな宗教」として軽蔑の対象となっていました。ローマで発見された有名な落書きでは、アレクサメノスと呼ばれる人物が、十字架につけられロバの頭をした人物を礼拝している様子が描かれていますが、これはキリスト教を揶揄するものだったと考えられています。

パウロはまた、この記事冒頭に引用した1コリント1章22-24節にあるように、イエスの十字架がこの世の人々の軽蔑の対象となることを十分認識していました。しかし、彼は同時に、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。」(ガラテヤ6:14)と語っています。死と暴力が支配する世界において、恥と弱さの象徴である十字架を誇りとすることにより、クリスチャンたちはこの世の支配に属さないものであることをはっきりと宣言しました。初期キリスト教徒たちはまさに「誇り高き賤民」だったのです。

もちろん、初期キリスト教とヘヴィーメタル文化を単純に同一視することはできません。けれども、各サブカルチャーでシンボルがどのように用いられているのかを理解することができなければ、私たちは社会で起こっていることの本質を見抜くことができないのではないかと思います。つまり、私たちはそこで話されている文化的「言語」に習熟する必要があるのです。キリスト教会が大衆文化の悪魔的イメージの表面だけを見てヒステリックな反応をしていると、問題の所在をとりちがえ、その文化に生きる人々を本当に理解することができなくなってしまうのではないでしょうか。

(続く)

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