平和を作り出す人たちは幸いである"
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、八福の教えの中の”
平和を作り出す人たちは幸いである”ということを考えてみました。八福の教えの第七番目は、
「平和を作り出す人たちは幸いである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」というものです。「平和」というのは、「戦争や紛争がなく、おだやかな状態にあること」と辞書では定義されていますが、これはあまり積極的な意味での定義とは言えない気がします。もちろん争いがないことは良いことですが、争いがなくても、とても平和とは言えない家庭、社会、国家はいくらでもあります。たとえば、家庭の中でそれぞれが自分のことしか考えず、お互い相手のことに無関心だとしたらどうでしょうか。そんな家庭は、たとえ争いがなくても平和とは言えません。無関心とは愛の反意語ですから、無関心な関係に平和など存在しません。ここで言われている「平和」とは、旧約聖書のヘブル語ではシャロームという言葉です。また新約聖書のギリシャ語ではエイレーネーと言いますが、「平安」とも訳される言葉で、これは、ただ争いがないというだけでなく、人間の幸福をつくり出す、すべての良いものを意味する言葉です。ユダヤ人はこの言葉で挨拶を交わし、挨拶をした相手に、すべての良いことが起こりますようにと願うのです。
ここでは、
「平和を作り出す人たちは幸いである」と言われているように、ただ、平和を願う人、また平和を愛する人が幸いなのではなく、平和を作り出す人が幸いであるということで、もっと積極的で、主体的な意味合いがあります。ですから、平和を脅かす事態があるときに、何もしないのではなく、その事態に向き合って、必要な処置を積極的に取り、平和を作り出していくのです。
その意味で、平和とは、自然に起こってくるもの、また誰かが作り出すものではなく、自分自身が積極的に作り出していくものであり、また人と人との平和な関係も自分のほうから努力して作り出していく、それが平和を作り出す者の生き方です。
この世で最も平和を作り出された方は、もちろんイエス・キリストです。キリストは、神と人間との間に平和を作ってくださいました。人間は神によって造られ、もともと神との平和な関係にあったのですが、神に背いたことで罪が入り込み、神との平和な関係が壊れてしまいました。
そこで、その関係を平和なものにするためにキリストが来て下さり、十字架で死に、神と私たちの間で平和を壊している罪の問題解決をして下さったのです。そのように、キリストは平和を積極的に作り出して下さったのです。
さらにキリストは、人と人との間にも平和を作り出して下さいました。それは、ユダヤ人と異邦人の間の平和です。以前は、両者に平和はありませんでしたが、その壁を打ち崩し、平和を与えて下さったのです(エペソ2:14)。イエス・キリストを信じ受け入れる者は一つとされ、キリストによって、同じ天国の国民、家族とされるのです。
キリストによって神との平和を得た者は、その平和を深く味わいながら、他の人と神との平和な関係を作り出すために祈り、積極的に生きるべきです。それが神の子にふさわしい生き方です。
アッシジのフランチェスコの”平和の祈り”です。主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、・・・・・・・・・・
今日の一言: 主よ、私を平和の道具としてお使いください。平安鶴田健次
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