被造物に現れる神性

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

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「被造物に現れる神性」

田中健三
創世記1,11-13;

 創世記1章は神が自然を造り、それを良しとしたことが連続で記されています。このこと自体がエコロジーに関してユダヤ・キリスト教的思想における支持を示していますが、「神が自然を良しとした」と人が思ったということです。ところでこの「良しとした」という内実を、進化論的視点を加味することでより深く味わうことができます。

 創世記ではあたかも神が自然を、間違いなく、的確に、神の能力に相応しく簡単に、完成させたように記していますが、現実の自然の生成(神の視点で言えば創造)は決して容易なものではありません。つまり自然を観察、研究するならば、神とても簡単に創造したわけではないということになります。

 今存在する自然あるいは世界は、失敗に次ぐ失敗の産物であるのは誰も否定できないことです。

 動物は生存競争の果てに絶滅した種も少なくなく、たとえ適者なる種であっても誕生して生き残る個体数はわずかであり、多くの個体は早い段階で死んでしまいます。植物も強い種類は残り、弱いものはなくなり、また地に落ちた種子で芽が出て成長するのは決して多くありません。人間もそういう意味では、1億から4億とされている精子の中から受精に至るのは1個であり、それがわたしたちという存在です。ほとんどの精子は死んでしまいました。

 このように考えるとわたしたちの存在あるいは自然自体が驚き以外の何物でもありません。そして今ある自然は多くの失敗や淘汰、やり直しによってできた苦心作である、と言うことができます。

 だからこそわたしたちから見て自然が貴いのであり、例えば風雪に耐えて咲いている小さな草花を見て心打たれるのは、その背後に多くの失敗作があること(つまり途中で死んでしまったもの)が想像でき、今あるということ自体が奇跡的であるからでしょう。

 そうして神がいるならば、このような過程を経て生成されているからこそこの自然を一層いつくしまれる。現代的視点から創世記1章を解釈すると、これが「神が見て良しとされた」ということの背景だと考えることでより理解が深まるのではないかと思います。

 内村鑑三は、神を認識することは「聖書」と「天然」あるいはそれに加えて「歴史」から可能である、と述べています。天然から神がわかるというのはパウロがローマ1,20で記していることと同じです。ところでこういう考えはパウロのオリジナルではないようです。例えばユダヤ教の知恵文学に位置付けられる「ソロモンの知恵」に同じような思想が見られます。「ソロモンの知恵」の成立年代は明確ではありませんが、おそらく前1世紀頃であろうとされており、パウロ時代より少し前に当たります。

 その13章には次のように記されています(日本聖書学研究所編『聖書外典偽典2』所収、関根正雄訳)。

「というのは創られた物の力と美から類推して、それらの物の創造者が認められるからである」(3節)。

「というのは彼らはそれだけの知る力を持ち、世界を観察できたのだから、これらの物の主をもっと早く見出すべきだった。彼らはあわれにも死んだものに望みを託し、人の手の業を神々と呼んだ。金銀細工のような人の細工になる物、動物の像、昔の人の手の工なる無用の石を」(9-10節)。

ヘレニズムの影響を受けたユダヤ人への警告の言葉と理解してよいと思いますが、異邦人文化への批判を視野に収めつつも、直接にはユダヤ人へ語りかけている文章です。ローマ1,18-23とほぼ同じ内容であることから、このような問題意識の共有がパウロ時代にはある程度なされていたことが推察されます。

 そうするとローマ1章は異邦人およびユダヤ人、つまり全人類を視野に入れた語りかけであることが支持されます。1章は異邦人のみへの語りかけとされることがありますが、そうではなく全人類を念頭に置いている可能性が低くありません。2,1では「だから、すべて裁く者よ」とむしろユダヤ人を対象に呼びかけているように見えることも、1章が異邦人のみを対象としているわけではないことの根拠となり得ます。

 さて内村が「聖書と天然」によって神がわかると言う際の「天然」には人間も含まれると考えるのが妥当です。自然を観察すればそこに神性が現われていると言う時に、それは人間を観察すればあるいは自分自身を観察すればそこに神の摂理が現われる、というように。「自然」という中にわたしたち自身の生き方が含まれ、そして自然の中における人間としての生き方が問われ、その観察から神の存在が実証できる、ということです。わたしたちがどのように生きるかということは神認識の証拠となるということになります。

 これはローマ書にも書かれていることであり、自然における人の倫理ということがパウロの構想にもあります。1,29以下に具体的な倫理(特に悪しき行為)が挙げられていることからもそれはわかります。

 自分がどう生きるか、どういう選択をしていくかということが、ひとつの実験材料となり、その実験結果によって神存在を実証的に知ることができる、ということですので、わたしたちの生き方はとても重要になります。

 そしてその事を真摯に受け止めた時、わたしたちの生き方が決して正しい選択ばかりではなく、失敗の連続であり、時にはもう滅びるしかないように感じることさえあったことを認めざるを得ません。しかし先ほどの述べた「失敗の連続の苦心作」であるが故に貴いということが、わたしたちの人生にも該当するのではないでしょうか。何回もころびながらも今こうして生きていることが貴いのであり、神の視点に立てばそのようなわたしたちを、そのようなわたしたちだからこそ一層「良し」としてくださるのではないでしょうか。

 聖書を通して万物を理解するのではなく、むしろ天然を通して聖書を読むという観点は重要です。そして人を通して自然を見るのではなく、自然を通して人を見る観点も同様に今や重要です。その上で循環的に聖書と対話することで、神と対話しつつ、神と天然と歴史から神を学ぶことができるのではないでしょうか。それらを道しるべとしてわたしたちは神の存在を感じつつ歩んでいく幸いを感謝することができます。


 
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