アベルはどこにいるのか」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

先週は、創世記を朗読するだけだったが、今日はそれについて少し話したい。

聖書の神は、厳しく正義を求める神であって、しばしば人間を根底から揺るがすような問いを発する。3章では、罪を犯したアダムがエデンの園の木の間に身を隠していると、神は彼を呼んで、「どこにいるのか」(3,9)と問う。4章に入ると、神は、弟アベルを殺したカインに「お前の弟アベルはどこにいるのか(同4,9)と問い、彼が知らん振りをすると、「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる」(10)とたたみかける。新約聖書でも、主イエスは、キリスト教徒を迫害していたパウロに「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか(使徒言行録 9,4)という問いを以って迫る。パウロは地面に倒れる。

我々は、このような神の問いを避けることができない。言いのがれをして自らを正当化しようとしても、神の前でそんなことは通用しない。遂にはカインのように、「私の罪は重すぎて負いきれません…」(13)と告白するしかない。だが、感謝すべきことに、我々の神は憐れみの神でもある。自己の罪責を告白したカインは、神の憐れみによって滅びから救われる。「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」(15)。慰め深い言葉である! この物語は、罪を告白することは辛いことだが、それこそが命への道であることを示している。

まことに、自らの罪を率直に認めて告白することこそ、赦し・再生・祝福への道である。これに関連して、先週はドイツの教会が1945年10月に発表した「シュトウットガルト罪責宣言」に言及した。今日の週報の裏面にこの宣言の全文(村上訳)がコピーしてあるから、参照して欲しい。

さて、先週も述べたように、この宣言のきっかけになったのは、ある教会会議の席上マルチン・ニーメラーが行った演説である。彼はその中で次のように明言した。ナチスだけが悪いのではない。むしろ責任は教会にある。特に彼自身が指導者として関わった「告白教会の責任は大きい。とというのは、告白教会は当時のドイツで何が起こっているかをはっきりと見抜いていたにもかかわらず、生ける神よりも人間を恐れてその責任を果たさなかったからだ。ドイツに破局が訪れたのはそのためだ、というのである。そしてこう言った。「我々は胸を打って告白しなければなりません。『ワタシノ罪、ワタシノ罪、ワタシノ大キナ罪!』と。これは参加者一同の心に深く刻まれた。「シュトウットガルト罪責宣言」の背後には、こうした事情がある。

だが、それにしても、ニーメラーは「告白教会」の指導者として全力でナチスに抵抗した人物である。そのために1937年にゲシュタポに逮捕され、最初はベルリン近郊のザクセンハウゼン、41年以降はミュンヘン郊外のダハウ強制収容所に移されて、45年に米軍によって解放されるまで8年間獄に繋がれていた。その意味では、彼に責任はない筈である。その彼が、「ワタシノ罪と告白したのは何故か?

その謎を解くエピソードがある。戦後間もなく、ニーメラー夫人が「ダハウを見たいと言い出した。そこで、夫婦で強制収容所跡を再訪し、おぞましい死体焼却炉も見た。そこには「1933年から45年までに、23万8756名の人がここで焼かれたと書いた札が立っていた。23万8756人!この数字を見て彼女は気分が悪くなり、夫の胸の中に倒れこんでガタガタ震え出したという。

だが、ニーメラー自身も背筋が寒くなった。23万人という数字が原因ではない。それは彼にとって新しいことではなかった。そうではなく、「1933年から45年までという年数が彼を震撼させたのである。その時の気持ちを、彼はこう書いた。

「1937年の7月1日から45年の半ば迄は、私にはアリバイがある。… しかし、ここには33年からとある。33年から37年まで、お前はどこにいたのか? この問いから、私はもう逃れられなかった。1933年には、私は自由な人間だったのだ。

確かに、33年から37年までの間、彼は告白教会の指導者として何度かヒトラーに会ったことさえある。「その時、お前は彼に言うべきことを言ったか?」 この問いが彼を震撼させたのだ。それはやがて一つの夢となって彼を悩ませた。何度も同じ夢を見た。その中で彼はヒトラーとおぼしき人物と一緒に神の裁きの座に引き出されているのである。神はその人物に「何故お前はあのようにひどいことをしたのかと問う。するとその人は、「誰も私に福音を語ってはくれませんでしたと弁解したというのだ。ニーメラーは汗をびっしょりかいて目が覚める。「お前が自由であったとき、何をしたか? 何をしなかったか?」と鋭く問われているのを感じたのである。

裏面の文章のがこの告白の中心であって、そこにニーメラーの真実な意図が反映されていることは間違いない。しかし、いささか言い訳がましい調子もあるのが気になる。「我々はナチズムの悪とという所である。また、「もっとと訳した所は、原文では比較級である。つまり、「信仰告白もある程度勇ましくやったし、祈りも決していい加減ではなかった。喜ばしい信仰もあったし、熱い愛もなかったわけではない。しかし、残念ながら不十分だったという意味である。

この宣言はニーメラーが草案を書き、小委員会で最終的に仕上げたものだと言われる。その過程で、本来の意図が薄められて妥協の産物が出来上がったらしい。後に、「言い訳がましい比較級で自らの罪を告白するなどということが、聖書にあるだろうか」という批判が集中したのも当然である。

しかし、およそ人間のすることで欠点のないものはない。批判で終わるのではなく、先人の過ちから真剣に学んで将来に生かすことが、後の世代の責任ではないだろうか。

The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

Buy Now

bible verses about welcoming immigrants

Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

Blog
About Us
Message
Site Map

Who We AreWhat We EelieveWhat We Do

Terms of UsePrivacy Notice

2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.

Home
Gospel
Question
Blog
Help