「それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。」
(聖書のコリントの信徒への第一の手紙6章9〜11節、口語訳)
西欧諸国ではここ数十年の間に人間の性とキリスト教倫理をめぐって盛んに議論が交わされてきました。西欧の生活スタイルは伝統的なキリスト教の生活倫理から乖離していく傾向にあります。これはキリスト教会内でも問題になっていることです。ここで視線を過去に向けてみると、初期のキリスト教徒だけではなくイエス様の時代のユダヤ教徒の場合にも、彼らが自らとは異質な世界とその性道徳との対峙を余儀なくされた厳しい現実が見えてきます。
「古典古代」に分類される時代が千年以上続いた地中海世界は多種多様な諸国民の生活の舞台でした。ですから、安易にこの時代区分をひとくくりにして取り扱うのは妥当ではありません。とはいえ、ユダヤ教徒やキリスト教徒が古典古代の地中海世界でいかなる性道徳と対峙していたか、という点についてはギリシア人の文献もローマ人の文献もほぼ共通した見解を示しているのはたしかです。当時の人々は自分の教師たちから教わった道徳に程度の差はあれ忠実に従っていました。この点では現代人もあまり変わらないと言えましょう。古典古代の地中海世界にも生活様式や社会常識に関わる様々な規則がありました。しかしそこには、後代の西欧人が否応なしに影響を受けることになる「ある教え」が欠けていました。それはモーセの第六戒です。当時の地中海世界では「姦淫してはならない」という戒めは一般には知られておらず、性行為も夫婦間に限定されるものではありませんでした。婚前の性交も浮気も同性間の肉体関係も、こと男性に関していえば不道徳とはみなされませんでした。これからわかるように、ギリシア・ローマ世界の性道徳はユダヤ・キリスト教の性道徳とは根本的に異質なものだったのです。
当時のローマ人男性が受けるべきとされた性教育の内容はよく知られています。未婚の青年男子には将来の結婚生活に備えてあらかじめ性体験を積むludusと呼ばれる時期が設けられていました。婚前の性体験は避けるべきものではなく、むしろ逆に推奨されるものと考えられていたのです。奴隷の少女や少年、売春宿などが青年男子の性教育に一役買っていました。結婚した後でも、結婚相手以外と肉体関係をもつことは、それが異性とのものであれ同性とのものであれ、不道徳とみなされることはありませんでした。しかし、浮気相手が他人の妻である場合にはさすがに問題になりました。不倫は容認されていなかったからです。ローマ人の社会は不倫という不祥事を避けるために少年奴隷、少女奴隷、娼婦や男娼を性的に利用したとも言えるでしょう。
ギリシア人社会の現実もローマ人社会のそれと非常に似たものでした。たしかにギリシア哲学者のなかには節制の大切さを説く人もいました。節制という徳は古典古代後期においてしだいに強調されていくことになります。しかし一般的には、ギリシア人男性の性生活はいたって自由で奔放なものでした。弁論家デモステネスの現存する演説のなかには次のような箇所があります。
「我々は、快楽のために愛人を、日々の性生活のために同居人を、法律上の実子を得るために妻をもっている。」
このように、ギリシア人にとって結婚の目的とは法律上の相続人を得ることだったのです。これはしかし、結婚前であれ結婚後であれ異性および同性との肉体関係を結ぶ生活を妨げるものではありませんでした。彼らにとって性生活は、道徳的あるいは反道徳的という考え方とはまったく関連付けられていませんでした。彼らの営んだ性生活には、真心の愛もあればペドフィリア(小児性愛)もあるというように、多種多様な性的関係が入り混じったものでした(当時ペドフィリアは社会的に禁じられていませんでした)。
古典古代の文献にはよくあることですが、当時の人々の日常生活に関して私たち現代人が知りうることは(奴隷ではない)自由な身分の男性の視点から語られた事柄や証言に基づいています。生物学的な理由から、女性には男性と同じような自由奔放な性生活を送ることは容認されていませんでした。不慮の妊娠を避けるため、若い女性は若い男性とはまったく異なり、家の中で生活するのが一般的でした。
このように、ギリシア・ローマ世界の性道徳はその大半がユダヤ・キリスト教の考え方とはことごとく異質なものでした。それでは、古典古代期にこの二つの世界はどの程度またどのようにして互いに衝突したのでしょうか。
イエス様がこの世に生きておられた時代のユダヤ人は、彼らがパレスティナに住んでいるかそれともディアスポラの状況下にいるかに応じて、互いにまったく異なる社会的現実に直面して暮らしていました。ここで「ディアスポラ」とは、パレスティナ以外の地域で他の諸民族の只中で生活するユダヤ人共同体の置かれた状況を表す言葉です。「パレスティナのユダヤ人」と「ディアスポラのユダヤ人」という区別はもちろん大まかなものに過ぎません。当時のパレスティナにはユダヤ人以外の諸民族もたんさん住んでいたし、ディアスポラにおいても状況は地域によって様々だったからです。大都市アレクサンドレイアには、社会的にもかなりの自律を達成していたと思われる大規模なユダヤ人共同体がありました。かたやフィリピのような都市には、シナゴーグ(ユダヤ人の集会堂)さえなく、川のほとりで小さなユダヤ人の集会が細々と活動していたのです(使徒言行録16章)。
ユダヤ人教師たちの性教育の考え方は当時の様々な文献(「ミシュナー」など)から知ることができます。初期のラビたちの教えによれば、律法は若い頃結婚した伴侶に生涯忠実を尽くすことを男女双方に義務付けています。結婚外での性交も(m. Sot. 9:13)、同性間の性交も(m. Sanh. 7:4)、ラビたちは厳しく斥けています。これらラビ文献の他にも、ユダヤ教の性道徳を異邦人(つまり非ユダヤ人)向けに要約して説明した文書、ユダヤ人向けに旧約聖書の出来事を新たな視点を加えて語り直した文書、性に関する道徳教育を含む教理問答書などが、ユダヤ教の文献として今も残されています。
ユダヤ人歴史家ヨセフスの著作「アピオーンへの反論」には、ユダヤ人の性道徳に関するとても重要な記述がまとめられています。この書物でヨセフスは、ユダヤ人にレッテルを貼りたがるギリシア人著述家たちに対する反論を展開し、終わりにユダヤ人の信仰に関して短い描写を試みています。この興味深い箇所には次のような記述があります。
「私たち(ユダヤ人)の性道徳に関する律法はいかなるものか。律法が(男性に)認めているのは女性との自然な形で行われる性交だけであり、それも子どもを得るためだけのものとしてである。律法は男同士の性交を厳しく禁じており、そのようなことを試みる者は死なねばならない。(中略)夫は妻とだけ肉体関係をもつべきであり、他のすべてのケースは神をないがしろにする悪業である。他の者に嫁ぐはずの処女を強姦したり他人の妻を誘惑するなど、いかなる形であれ禁じられた性行為を行う者は決して救われることがない。」(2,199; 201)
ユダヤ教を弁護するこの書物でヨセフスは、ユダヤ人に対する異邦人の憎悪にはさしたる根拠がないことを示すために、ユダヤ人共同体の有様を理想化して描いています。これは護教的な文書にはよくみられる特徴です。とはいえ、ヨセフスの性道徳に関する言及のうちに、彼がエルサレムで育ち学んだ時期に直面した現実の社会状況が反映されているのはまちがいないと言えましょう。
ユダヤ人が自らのアイデンティティー保持のために採用した重要な方法は、旧約聖書を改めて語り直す、というものでした。この点で当時のユダヤ人聖書学者たちは聖典(旧約聖書)に対して時には大胆とも言える新たな説明を加えました。それは、聴衆が異邦人社会の只中でユダヤ人として生きて行く術を伝授するためになされました。たとえば、大都市アレクサンドレイア在住のユダヤ人哲学者フィロンは、創世記39章のポティファルの家での出来事について改めて語り直した際、ヨセフがポティファルの妻に対してユダヤ人の生活規範を説明するくだりを次のように付け加えています。
「私どもヘブライ人は自分らの律法と慣習に従っております。他の民族の男子は14歳になると娼婦や道端の売春婦や誰であれ自分を売る者たちのところに行くことが何の妨げもなく容認されるようになります。それに対して、私どもの間では娼婦は生きることさえ許されておらず、売春を営む女性は死罪になります。律法にかなう形で性交ができるようになる前には、私どもは一度たりとも女性と寝ることがありません。私どもは清い童貞として清い処女のもとに行くのです。私どもが結婚から求めるものは快楽ではなく、律法が認める嫡子です。今日にいたるまで私は自分を清く保ってきました。ですから、最初の罪として姦淫を行うつもりはありません。」 (De Iosepho 42-44)
聖書の語る出来事に上記のようなヨセフのとっさの返答を加えることで、フィロンは当時のユダヤ人共同体を教育する姿勢を示しているとも言えます。エジプトのアレクサンドレイアはギリシア人の都市であり、住民はギリシア人の性道徳に従って生活してしました。そこのユダヤ人共同体はたしかに大規模なものでしたが、それでもギリシア人の生活慣習に巻き込まれる危険は常に存在しました。とりわけ大きな危険は性道徳に関してでした。種々の危険を斥けるためにユダヤ人ができることは、教え続けることだけでした。フィロンはそれを実行し、結婚外における異性間の性交だけでなく、あらゆる同性間の性交をもきっぱりと否定しました。彼はプラトンなどギリシア哲学者たちを高く評価していたにもかかわらず、彼らの性道徳観に対しては距離を置くほかなかったのです。
古典古代の地中海世界で広域にわたって存在したユダヤ人共同体には、国民教育を目的としてユダヤ人の信仰と生活についての伝統的な教えをまとめた文書が多数存在していたことが知られています。それらのうちの幾つかはギリシア語の詩として書かれており、異邦人もその対象となっていたと思われます。また、最初ヘブライ語で書かれた文書もあり、これは他の言語に翻訳される際の底本となったと推定されます。初期のキリスト教の教理問答書の模範となったこれらの文書には、性道徳について多くの説明を加えるケースがしばしば見うけられます。一例として、著名なギリシア人フォキュリデスの名を借りた何者かの手によるユダヤ人文献(擬フォキュリデス)を挙げることができます。この文書は実際のフォキュリデスが生きていた時代よりもはるか後になって書かれたものです。ともあれこの文書からは 、「ユダヤ人になるためには必ずある種の規範に従わなければならない」、という主張が読み取れます。そして、信仰の核心部分についてはまったく触れないまま、性道徳を何度も話題に取り上げています。結婚前の性交は強い口調で否定され、「結婚式の日まで処女は鍵のかかった部屋に留めておかなければならない」、とされます(215)。同性間の性交は厳禁です。「自然に反する性交によって自然が定めた境界を超えてはならない。なぜなら、動物でさえオス同士では性交を行わないからだ。女性は男性の役割を演じてはならない。」(189-191)
「当時のユダヤ人は同性間の性的関係について暴力的な乱行というイメージしかなかったために同性愛について否定的になったのだ」、とこじつけの説明を試みる現代の神学者もいます。しかし、当時すでに地中海世界の各地で生活していたユダヤ人はギリシア・ローマ世界の異性間および同性間の性生活に関わる倫理とその実態についてよく知っていたのは明らかです。そして、多数派(異邦人)が容認する生活スタイルに対して少数派(ユダヤ人)が用意した解決策は、自らの性道徳観について倦まず弛まず自民族を教え続けていくことでした。
古典古代期のギリシア・ローマ世界の現実と、ユダヤ人が自らの道徳法に基づきその現実に対処した方法とは、新約聖書の文書にも新たな光を投げかけます。パウロがコリントでいかなる現実に直面したか、今や私たちはより深く理解することが可能になりました。パウロが「コリントの信徒への第一の手紙」を執筆した頃には、当地の異邦人キリスト教徒がキリスト教を受け入れてからまだ5年も経ってはいませんでした。コリント在住のユダヤ人から教えを受けていたキリスト教徒も中にはいたかもしれません。それでもパウロは彼ら宛の手紙で次のように書く必要があったのです。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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