「人生を導く神の光」中村吉基

イザヤ書7:10-14;マタイによる福音書1:18-23

イザヤ書7:10-14;マタイによる福音書1:18-23

先週はご一緒にクリスマスの礼拝を捧げました。

教会の暦ではクリスマスの期節が続いています。今日私たちは1月6日の主の公現の日に先立って、救い主イエスが世界の主として公に現れたその出来事の福音に聴いています。

今日の箇所では東の方で不思議な星を見た占星術の学者たちが、救い主に出会うために旅を続けたことが記されています。この学者たちというのはいったい何人で旅をしていたかはわかりません。しかし、救い主に出会ったその時…11節に記されてありますが…黄金、乳香、没薬という3つの贈り物をしたことから、よくクリスマス絵本などには「3人の博士たち」として描かれています。またこれはヨーロッパなどに残る絵画などに見られますが、3人の王様の姿として描かれています。「三王の礼拝」などというタイトルでそういう絵が残っております。けれどもこの学者たちは本当のところ、王様でも、学者でもなかったのです。権力を持っていたり、指導者でも知識階級に属する人たちでもありませんでした。聖書の原文で読んでみますとマゴイ(単数形マゴス)、私たちのよく知っている言葉で言うと「マジック」とか「マジシャン」のもとの言葉です。つまり占い師。実はこの人たちは異邦人、当時のペルシア(現在のイラン)、あるいはエジプト北部から来たであろう人々でした。

ペルシア、では尊敬を受けていた人物かもしれませんが、ユダヤでは占いというものは忌み嫌われていたものの一つであり、それを司る占い師たちは闇の中に生きている人々と軽蔑されていました。なぜ闇の中なのかといえば、まことの光である神さまを見失って、人々を惑わすようなことをしていると見られていたのです。しかし、神さまはそのようなマゴイたちに星を示して、その星によって彼らを導いて救い主との対面を果たさせました。

これは救い主イエスが、どこに生まれ、どのようなことをしているかに分け隔てなく、神はすべての人の平等を願い、イエスをこの世に送られたということを示しています。ですから主の公現のお祭りは、まことのクリスマスとしてキリスト教徒が12月25日にクリスマスを祝うずっと以前から憶えられてきた日なのです。

同じマタイによる福音書11:25には「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」。まさにここに記されてある通り、「知恵ある者や賢い者には隠して」幼子のような者に真実をお示しになるのが、私たちの神さま流のなさり方です。この「幼子のような者」とはいったいどんな人のことなのでしょうか。大阪・釜ヶ崎において日雇い労働者とともに働く本田哲郎神父の訳した聖書では「(低みに立つ)不器用な者たち」とあります。この幼子のような者とは、知恵ある人や賢い人からすれば教養のないもの、学歴どころか、無学な者、文字の読めない、書けない者などでしょうか。健康な者からすれば、病気の人、健常な者からすればしょうがいを持つ人、豊かな者からすれば貧しい人、社会の隅っこに追いやられ、力をなくし、希望も持てない人を示します。私たちの生きている現代にもこのような人たちはたくさんいますし、かつて私たちもその一人であったかもしれません。本当の意味で心も身体も飢え乾き、心が折れそうになっている、救いを求め、本当に救いを待ち望んでいる人たちの上に神さまの星は輝いたのです。私たちはクリスマスツリーに星を飾ります。それだけでなく、イルミネーションにも、小さなカードにも星の形を見ることがあります。実はあの星は神さまの救いのサインであったのです。

そして幼子のような者の代表として東方の学者たちは救い主イエスのもとに導かれるのです。考えてみれば人の人生というのは不思議なものだと思いませんか。おそらくこの学者たちもこうしてイエスに出会ったことによって自分たちのことがその後2000年にわたって聖書で語り伝えられるなどと予想だにしなかったことでしょう。

2024年が終わろうとしています。新たに始まる2025年をいかに生き抜いていくのでしょうか。今私たちが置かれている現状に満足している人もいれば、不満を持っている人もいるでしょう。しかし今がどうであれ、神さまは皆さんお一人おひとりに次の舞台を用意していてくださいます。そして今まさにその扉が開かれようとしています。そしてこれから先の人生に神さまは皆さんに素晴らしい贈り物を用意されています。

詩編30:6に「泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」とあります。この言葉は真実です。私たちにとって大切なのは昨日のことではありません。一昨日のことでもありません。5年、10年前のことでもありません。なぜなら過去は終わってしまったことです。そこに戻ってとやかくできることではないのです。私たちが大切にすべきなのは今日という一日をいかに生きていくか、ということです。そしてそこから未来に向けて目を上げていくのです。

神さまは東方の学者たちを見放したり、見捨てたりしなかったのと同じように、私たちのことも守ってくださっています。私たちもまた「幼子のような者」「不器用な者」です。しかし私たちはそれで終わるのではありません。救い主イエスさまが指し示してくださった神さまと結ばれることによって完全な者になることができるのです。神さまはもうすでに私たちが生まれる前から私たちのことを知っておられます。そして神さまは私たち一人ひとりにそれぞれ固有のいのちを与え、そこには素晴らしいことをする、あるいは素晴らしいものを生み出す可能性の種を植えていてくださるのです。神さまは私たちに神さまの夢を託してくださっていると言ってもいいかもしれません。

このように聞くと皆さんの中には首をかしげたり、信じられないという人もあるかもしれません。なぜなら私たちは人生の中で挫折を経験したり、失敗したり、苦しみのどん底にあったりしてきたからです。私たちのいけないところはいつまでもその悪夢のような記憶が残っていて、何か新しいことを始めようとするとその記憶が邪魔をして、足をすくませてしまうのです。ですから神さまに私たちの悪い記憶を消し去っていただかなくてはならないでしょう。どうでしょう。私たちがいつも何かに二の足を踏むのは、私たちの悪い記憶が原因になっていないでしょうか。しかし、私たちはもうすでに神さまとつながっているのです。神さまは一人ひとりを特別に、価値のある存在としてお造りになっているのです。私たちには見えていないかもしれませんが、それぞれに神が造られたものです。確かに私たちの人生には失望あり、挫折ありの人生でしょう。この自分のどこが神が造られたものなのか? と怒りたくなる時もあるでしょう。またどうやって立ち上がっていいのか、わからない時もあります。聖書は告げます。ガラテヤの信徒への手紙3:26「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」。

自分の中に、素晴らしい神さまからの夢や力が与えられている。イエス・キリストによって私は神の子とされたのだから、今私はここから立ち上がって、神さまに造られた私を存分にあらわす人生を歩んでいこう。

私たちの人生はよく旅に譬えられます。その旅路がどちらのほうを向いていたとしても、迷い出てしまったとして、自分の思いとは裏腹に違う方向に行ってしまったとしても、東方の学者たちを導いた星の光のように神さまは私たちの旅もしっかりと導いてくださいます。そのために真剣に神さまに祈る私たちでありたいと願います。そうすれば学者たちがイエスを拝むことができたように私たちも神さまからの声を、御心を聞くことができるはずです。私たちは今ここから立ち上がって出かけていきましょう。

「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(10)。

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