罪の告白と赦し」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

 我々の教会の礼拝順序は、前奏・招き・讃美歌・詩編交読・聖書朗読・祈祷・説教・祈祷・讃美歌・献金・主の祈り・頌栄・祝祷・後奏となっている。しかし、ここには伝統的な礼拝順序に見られるいくつかの要素が欠けている。讃美歌は二つだけだし、「信仰告白もない。これは、異なる伝統を持つ二つの教会が合同したために、双方に受け容れ易い簡潔な礼拝順序を必要としたからであった。しかし、いずれ、本来在るべきものは礼拝順序の中に位置づけることになろう。既に「信仰告白に関する話し合いはある程度進んでいる。私は、このことを踏まえた上で、今後しばらくは、それと深く関連する「罪責告白の問題を説教のテーマとしたい。

 古来、礼拝(ミサ)の中では必ず「罪の懺悔がなされた。「キリエ・エレイソン(主よ、憐れみ給え)という祈りも本質的には「懺悔に属する。これに応えて聖書が朗読され、説教を通じて神の「赦しの言葉(福音)が告げられる。この赦しの恵みを讃美するのが「グローリアや「ハレルヤであり、それが「クレド(信仰告白)へと続く。このように、「罪の告白と赦しは礼拝に不可欠の要素であった。

 礼拝以外でも、教会の伝統の中で「罪の告白と赦しは重要な意味を持っている。いくつかの実例を挙げてみよう。

 先ず、カトリック教会に「告解(コンフェッション)(第二ヴァチカン公会議以後は「ゆるし)の秘跡(サクラメント)があることを指摘したい。受洗後に大罪を犯した信者は、良心を働かせて自分のすべての罪を検討し、心から悔い改め、決心してそれを司祭に告白しなければならない。司祭は告白を注意深く聞いた上で神の御名において「赦しを宣言し、その人を神と和解させるのである。むろん、秘密は絶対に守る。たとえその人が殺人犯であっても、司祭は警察に通報したりはしない。それ程、告白は重んじられる。

 次に挙げるのは、ボンヘッファーの例だ。彼は若い頃、ローマやパリのカトリック教会を訪れたとき、そこで真剣に罪を告白している信徒の姿を見て深く心を打たれ、後に「牧師研修所での「共に生きる生活の中にそれを取り入れた。「罪を告白することは、プロテスタント教会にとっても不可欠だと考えたのである。『現代キリスト教倫理』の中で、ナチス支配下の教会の罪責を十戒に照らして具体的に告白したことも、この線上にある。彼の信仰においては、自らの「罪を告白することは決して「自虐などではなく、赦しと祝福につながる唯一の道だったのである。

 第三に、2000年3月に教皇ヨハネ・パウロ2世が発表した「記憶と和解という回勅を挙げたい。これは、先住民を暴力的に改宗させたこと・異端審問・十字軍・ユダヤ人迫害の容認といった過去の罪責を認めて、カトリック教会の名において謝罪した歴史上最初の文書である。ヴァチカン内部には、これが教会の尊厳を傷つけるのではないかという恐れから反対する聖職者たちも多かったと聞くが、むしろ逆ではないか。「罪を告白することこそ、赦しと祝福に通じる唯一の道なのである。

 我々の日常生活においても、「罪の告白が赦しと祝福に通じるというこの真理を経験することが少なくない。他者との関係がこじれた時、相手よりも先に自分の過ちを認めて謝まるのは、第一、「面子に関わるし、「悪いのは自分だけではない、向こうだって悪いと言いたい気もする。そして、それには満更根拠がないわけでもない。自己正当化・意地の張り合いは昂じて関係は益々こじれる。これは子供の喧嘩から夫婦の争い、さらには国際的対立に至るまで共通して見られる現象である。

 だが、そういう時、どちらか一方が体面にこだわらずに「私が悪かった、ごめんなさいと率直に謝まると、局面は一挙に打開されて険悪だった関係が修復される。これは、人生で我々が経験する不思議な祝福の一つではないか。

 ヨハネは今日の個所で、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。…自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます(1,8-9)と言っているが、これは我々の経験に照らしても肯けるのである。

 ドイツの教会が敗戦の年の10月に「シュトウットガルト罪責宣言を出したことは知られている。この罪責告白の原動力になったのはマルチン・ニーメラー牧師である。彼は戦争中、「告白教会の指導者としてナチスに抵抗した。そのために、1937年には逮捕されてダハウの強制収容所に幽閉され、敗戦までの8年間をそこで過ごした。

 そのニーメラーが、45年8月、戦後の教会再建について協議するために全国から集まったドイツ教会の代表たちを前に行なった有名な演説がある。その中で彼は、戦争の責任をナチスだけに押しつけることは正しくないと言って、こう述べた。

 「本来の責任は教会にあります。…そして、告白教会の責任は特に重いのです。というのは、目の前で何が始まっているかを最も明確に知っていたのは告白教会だからです。…それなのに、教会はやがて疲れ、生ける神よりも人間を恐れるようになりました。こうして破局が我々すべての者の上に訪れたのです。…我々は胸を打って告白せねばなりません。『ワタシノ罪(クルパ メア)、ワタシノ罪、ワタシノ大キナ罪!』と。

 この真実な告白は、聞く者の胸を打った。それが「シュトウットガルト罪責宣言を生み出す核となり、さらには戦後ドイツ教会の再生の土台となった。このことは、我々の教会にとっても示唆に富む事実ではないだろうか。

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