自分の業を終えて休む

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

自分の業を終えて休む

村上 伸
ダニエル書12,1-3;

キリスト教の暦では11月23日が一年の最後の日曜日で、終末主日と呼ばれている。西欧の教会では、その日に死者を記念する礼拝を行うのが一般の習慣であるが、私たちの教会では毎年11月第2日曜日に召天者記念礼拝を守ることにしている。先に天に召された信仰の先達を記念するこの特別の礼拝である。今日もここに多くのご遺族の方々をお迎えした。懐かしい人たちのことを思い起こして感謝の気持ちを新たにするとともに、ご遺族の上に心から神の恵みと祝福を祈りたい。

週報の裏面に名簿が印刷してある。一応正規の教会員をということで線を引かせて頂いたので、この名簿にお名前が載っていない方々もある。しかし、その人たちも同じように記念したいので、お写真をお持ちの方は今からでも前の台に並べて頂きたい。神の祝福の下で、ご一緒にひと時を過ごしたいと願っている。

この方たちの多くは長生きをし、寿命を全うされた。これは疑いもなく神の祝福であって、感謝すべきことだ。しかし、中には愛する人が思いがけなく早く、まだ若くして亡くなるという大きな悲しみを経験された方もおられる。その未完に終わった人生に口惜しい思いもされたことだろう。その未完ということについて、今日は先ず申し上げたい。

今年はキング牧師の死後40年ということもあって、色々な所で彼の名を聞くが、彼が公民権運動の途上で暗殺されたのは、まだ39歳のときであった。正に未完の生涯と言わなくてはならない。しかし、仮にその死が早すぎたとしても、彼の生涯が無意味であったわけではない。その影響力は今に至るまで衰えていないのだ。

反ヒトラー抵抗運動に身を捧げたドイツの神学者ボンヘッファーも、ゲシュタポによって絞首刑に処せられたとき、同じく39歳であった。そのボンヘッファーが獄中から友人に宛てて書いた手紙の中で、人生は多くの場合完璧なものではあり得ず、しばしば断片的で、まるでトルソのようだと書いている。トルソとは、頭部や手足のない、胴体だけの彫刻のことで、ギリシャ古代の彫刻を集めた美術館ではいくつも見かける。多くは無名の彫刻家の作品だが、ハッとするほど美しい。

ボンヘッファーが我々の人生は一つのトルソであると書いたとき、彼は既に自分の人生が断片のまま未完で終わることを覚悟していたのかもしれない。しかし、断片でも美しいものがある。この着想には慰められる。

イエスも、30歳のころ十字架上で殺されたから、彼の生涯は未完であったと言えるかもしれない。しかし、この方の短い一生が世界史の中で持ち得た巨大な影響力を考えるなら、未完であることは必ずしも悲しむべきことではない。

 

ここで、先ほど朗読したに目を留めたい。その前後に書いてあることは大変ヤヤコしいので、私は思い切ってそれらを省略し、神の安息というキーワードに絞って述べることにする。

神が休まれる! これは聖書独特の思想である。天地創造の神話はバビロンにもあるが、そこでは、最高神マルドゥクは創造の業を終えると神々の集会で大いに賞賛されたという。だが、創世記の天地創造物語は、神は創造の業を完成された後、お造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった(1章31節)と書き、さらに、天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった(2章1節)と続けている。

この安息は、単なる骨休めではない。神がああ、疲れたと言って一息入れたということでもないし、責任を逃れてどこかに雲隠れしたということでもない。昔、日本では、旧暦の10月に八百万の神々が皆出雲に集まると言われていた。他の地方では神々が留守になる。そこから、10月は別名神無月と呼ばれた。

しかし、この神の不在という考えは、聖書にはない。聖書の神は、モーセに対してご自身を紹介し、わたしはある。わたしはあると言う者だ(出エジプト記3章14節)と言われたという。つまり、どんな時にも必ずあなたと共にいると約束して下さるのが聖書の神だ。だから、神の安息は神の不在ではあり得ない。

必ずあなたと共にいると約束して下さるこの神が、ご自分の意志に従って天地万物を造り、その仕事が完成したとき、その出来栄えに満足し、喜んでそれを祝うために仕事を離れ、安息なさった。それ故、神の安息は完成の喜びであり、喜びの祝祭にほかならない。今日の箇所に神は御業を終えて休まれた(10節)とあるのもそういう意味だ。世界も人生も、この大いなる肯定から始まった! このことを我々は心に刻みたい。

この世界の中にあるすべてのもの、特に、一人ひとりの人間は、神がそう望まれたから存在する。一人として、無意味に、あるいは偶然に生きている人はいない。そして神は、我々一人ひとりが生きていることを喜び、祝福されるのである。繰り返すが、神が創造の業を終えて安息されたというのは、そういう意味なのである。

天寿を全うして天に召される人もいるし、残念ながら若くして未完の生涯を閉じる人もいる。しかし、どんな人でも、神の大いなる肯定によって生きているのだから、死ぬ時も無意味に死ぬわけではない。その死には、我々にはまだよく理解できないかもしれないが、独自な意味が与えられているに違いないのである。

神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休むと言われている。この言葉は、我々の死が持っている深い意味を暗示しているのではないだろうか。



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