昨年92歳で他界した詩人・栗原貞子さんに生ましめんかなという詩がある。
こわれたビルデイングの地下室の夜だった/原子爆弾の負傷者たちは/ローソク一本ない暗い地下室を/うずめていっぱいだった/生臭い血の臭い 死臭/汗臭い人いきれ うめきごえ/その中から不思議な声がきこえてきた/赤ん坊が生まれると言うのだ/この地獄の底のような地下室で/今、若い女が産気づいているのだ。/マッチ一本ないくらがりで/どうしたらいいのだろう/人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
原子爆弾で焼かれた被爆者たちのうめき声と生臭い血の臭い、それに死臭で満ちた真っ暗な地下室。そこで急に産気づいた若い女性。どうしたらいいのだろうと途方に暮れる人々。これこそ正に闇である。
だが、栗原さんの詩は続く。
と『私が産婆です、私が生ませましょう』/と言ったのは/さっきまでうめいていた重傷者だ/かくてくらがりの地獄の底で/新しい生命は生まれた/かくてあかつきを待たず産婆は/血まみれのまま死んだ。/ 生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも。
マッチ一本ないくらがりの地獄の底で、新しい命が生まれる! しかも、その暗闇の中で、生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つともという強い意志をもって新しい命の誕生に仕えた産婆さんが居合わせたということ。
これは、どんな闇の中にも光である神が存在するという真理を暗示しているように思われる。特に、生ましめんかな/己が命捨つともという結びの言葉は、十字架上で死んだ主イエスと重なるようである。
神は光である! そして、主イエスは世の光である(ヨハネ福音書8章12節)。だから、私たちは光の中を歩むのである。
では、光の中を歩むとはどういうことか?
華やかな名声に包まれる生活とか、スポットライトを浴びる生活というのがあり、多くの人はそれを生涯の目標にする。だが、聖書が私たちに指示している光の中を歩む生活とは、そういうことではない。
それは、イエスの生き方に倣って生きて行くということである。それを最もはっきりと、具体的に教えた聖句の一つが、私たちの教会の姿勢にも引用されたフィリピの信徒への手紙2章であろう。
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい(3-4節)。これは正に、イエスが生涯を貫いて実践した生き方であった。それはキリスト・イエスにもみられるものです。ここは、昔の『文語訳』ではもっと単刀直入であった。キリスト・イエスの心を心とせよ。
パウロは、そのことをさらに次のように展開する。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(6-8節)。
光の中を歩む。何故それが光の中かといえば、神がそれを望んでおられるからだ、そして、主イエスもそう生きられたからだという他はない。彼に従っていきることにより、私たちはこの世のスポットライトは浴びなくても、永遠の光に照らされるのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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