N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(4)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

(その1 その2 その3)

前回に引き続いて、第2部「太陽を見つめる」を見ていきます。前回とりあげた第5章では、ライトはキリスト教の世界観を提示しました。すなわち、神がおられる場としての「天」と、人間が住む場としての「地」は、完全に一致しているわけでも完全に分離しているわけでもなく、部分的に重なり合い、かみ合っている関係でとらえられています。

第6章から第10章まで、いよいよライトはキリスト教が提示する物語(ストーリー)とはどのようなものかを語り始めます。第5章で彼が世界観について語ったのは、いわばその物語のための舞台を設定する作業だったと言って良いと思います。

キリスト教のメッセージとは何かということについて、ライトは第5章の冒頭で次のように語っています。

クリスチャンは、神と世界についての真実の物語(ストーリー)を語っていると主張する。(81頁)

ここで彼が使っている「物語(ストーリー)」ということばに注目する必要があります。ライトはキリスト教のメッセージとは、抽象的な教理の体系ではなく、なによりも一つの物語であると主張しているのです。

キリスト教のメッセージの中心的な資料は言うまでもなく聖書です。では聖書とはどのような本なのでしょうか?多くの人々は、聖書とは人がいかに生きるべきかのマニュアル、救われるために何をすべきで何をしてはいけないかが書かれているルールブック、または、神についてのさまざまな情報が述べられている百科事典のようなものであると考えています。聖書にそのような側面がないわけではありませんが、それらは聖書の本質をとらえた理解ではありません。実際に聖書を手に取ってみれば一目瞭然ですが、聖書はマニュアルやルールブックや百科事典のように、主題別に系統立てて整理されて書かれている書物ではありません。時にはそのように読める部分もありますが、それらはさらに大きな全体の一部に過ぎないのです。

聖書を全体としてとらえたとき、最も適切な理解は、それを一つの長い物語(ストーリー)として読むことです。旧新約聖書66巻からなる正典聖書は全体としてみれば、宇宙と人類の創造に始まり、人類の救済と宇宙の再創造に至る、一つの壮大な物語であると言うことができます。

(先に進む前に一言ことわっておきますが、ライトが聖書について「物語」や「ストーリー」と言う時、それは必ずしも「作り話」「フィクション」という意味ではありません。聖書学ではそのような誤解を避けるために「ナラティヴ」という用語を使うこともあります。)

西洋のキリスト教において、聖書はしばしば神や世界、人間についての命題(「神は愛である」「すべての人は罪人である」等々)を含む書物であり、神学の任務は聖書のあちこちに断片的に含まれるそのような命題を抽出して、聖書以外の情報源(人間の体験や理性や伝統など)も加味しながら体系的に整理しなおすことであると考えられてきました。そのような営みを「組織神学」といいます。

組織神学は、キリスト教の信仰内容を秩序だって提示するにはたいへん有益ですが、一つの問題が生じます。つまり、組織神学においては、神のことばである聖書は、命題的真理を抽出するための単なる素材に過ぎなくなってしまうということです。神学者の務めは、聖書という鉱床から様々な神についての命題という原石を掘り出し、磨き上げ、種類ごとに整理して陳列することであって、ひとたび見事な宝石のコレクションが完成したら、もはや元の鉱床が顧みられることはありません。同様に、もし神学者たちが聖書に含まれるあらゆる命題的真理を正確に抽出し、緻密な体系に組み立てていくことによって、「完璧な組織神学書」が書かれることができた暁には、もとの聖書そのものは、果汁を絞り尽くされた後のオレンジの皮のように、用済みになってしまうのでしょうか?

もちろん、実際にそのようなことが口に出されることはありません。神のことばとしての聖書には、(少なくとも形式的には)今も昔も十分な敬意が払われ、尊重されています。けれども実質的には、聖書は神についての命題的真理という宝物が豊富にしかしランダムに詰め込まれた宝物庫のようにみなされていることが多いように思います。これは神学者だけの話ではありません。多くのクリスチャンが「デボーション」と称して日々聖書を読んでいます。しかし、しばしばそこで読まれる断片的な聖句は聖書全体の大きなストーリーラインの中で理解されるのではなく、その日の箇所からいかに貴重な「霊的教訓」を得ることができるかということに関心が寄せられています。そのような聖書理解は、多くの場合オリジナルの文脈から切り離された解釈で、聖書記者の意図とはかけ離れたものであるばかりでなく、そもそもそのような「教訓」を適用すべき自分たちが、歴史における神のご計画の中でどのような位置にあるのかも顧みられずになされることが多いため、かなり偏った主観的な解釈と適用に終わってしまうことが少なくありません。

組織神学がまったく無用の長物だというつもりは毛頭ありません。しかし、長らく西洋のキリスト教では聖書の命題的側面がナラティヴ的側面に対して過度に重視されてきたことは事実です(恐らくこれと関連して、新約聖書学において、福音書がパウロ書簡に比べて相対的に軽視されがちな傾向もあったと思います)。これに対して、20世紀になって聖書のナラティヴ的側面を重視しようとする流れが起こってきました。ライトもその流れの中にあると考えることができます。

物語は要約してしまうとその魅力やインパクトを失ってしまいます。言い換えると、ナラティヴは単なる命題の集合に還元することはできないのです。ナラティヴを本当に理解するためには、その全体を読み、味わい、その物語世界に入り込んでいって、一連の出来事を追体験していくことが必要になってきます。そして、ライトによると、これこそがまさに聖書の正しい読み方なのです。クリスチャンは聖書を物語として読み、聖書に描かれている神の物語を語り告げる民なのです。その物語とは、神がいかにして人類と被造物世界の救いを達成されるかという救いの歴史、「救済史」にほかなりません。

このように、本書において、ライトは前回見たような天と地が部分的に重なりあう世界観を縦糸に、救済史を横糸にして、キリスト教とは何かを描き出していきます。次回は、ライトが描く聖書の救済史について具体的に見て行きたいと思います。

(続く)

 

 

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