「永遠の命に至る水」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

 イエスは言うまでもなくユダヤ人である。同胞を愛したのは当然である。しかし、その愛は、地縁血縁による民族共同体への狭い愛ではなかった。ここに焦点を合わせて今日のテキストを考えたい。「神は、その独り子をお与えになったほどに、愛された」(3,16)と言われているように、彼は世界全体(コスモス)に対する神の愛の表われとしてこの世に生まれたのであり、従って世の人々に対する彼の愛は、地縁血縁を超越した神の視点から万人に向けられた。今日の個所の直前に、「地から出る者は地に属し、地に属するものとして語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる」(3,31)、と言われている通りである。

この「地縁血縁による民族共同体」の強い結びつきに基づく思想や行動は、今日もなお地球上の至る所に認められる。多くの民族紛争はこれによって起き、この考え方を乗り越えられないために、泥沼に陥ることもしばしばだ。日本で政治がなかなか変わらないのも、地縁血縁から自由になれないためだ。政治家たちが「地元」を優先することも、外国人に対して開かれた社会に中々なれないのも、そこから来ている。

イエスが生きていた頃のユダヤ社会においては、このような生き方は圧倒的に優勢だった。その中で、旧約の預言者たちやイエスが地縁血縁を超えた全世界的な視点から物事を考えることができたのは、実に驚くべきことである。それだけに、彼らは人々から理解されなかった。「言(=イエス)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1,11)、また、「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない」(3,32)とある通りだ。

ボンヘッファーは、ドイツ人でありながら、世界全体の将来という視点から、母国ドイツが戦争に負けるように真剣に祈ったという。だが、このことは一般のドイツ人には理解されなかった。彼は戦後、「民族に対する裏切り者」と言われた。このような批判・反感は、今日でも水面下に残っている。

イエスも、正に地縁血縁を超えた全世界的な視点から物事を見たために、反感を買った。今日の個所の初めには「ファリサイ派」の名が挙げられているが、イエスは彼らに受け入れられなかった故にユダヤを去らなければならなかった。彼にとって、地縁血縁関係の濃厚なユダヤは、もはや安住の地ではなくなったのである。

そこで彼は、異邦人が多数を占めるガリラヤで使命を果たそうとした。ところが、ガリラヤへ行くためにイエスは奇妙な行動をとる。普通ならユダヤとは仲の悪いサマリヤを避けてヨルダン川を渡り、東側を迂回してガリラヤへ行くのだが、イエスはそうしなかった。わざわざサマリヤを通る道を選んだ、というのである。

サマリヤ人は、元々ユダヤ人と同じ民族である。紀元前8世紀に超大国アッシリヤに滅ぼされて以来、宗教的にも純粋さを失ってユダヤ人から疎まれるようになり、その他のさまざまな事情が重なって関係は悪化するばかり、少し情況は違うが、ちょうど今日のイスラエルとパレスチナのように、殆ど修復不可能な敵対関係にあった。

そのような地域にわざわざ足を踏み入れたのも、水を汲みに来たサマリヤ人の女性に声をかけたのも、地縁血縁から全く自由であったことと関係があるだろう。

さて、「正午ごろのことである」(6)と書いてあるが、これは普通ではない。この地方の日常生活においては、日中の暑熱を避けて朝早く井戸に行って水を汲むのが普通であった。水が少なくなれば、日が落ちる夕方にもう一度行く。いずれにせよ、昼日中に井戸に行くことはない。

それなのに彼女が正午ごろ行ったのは、朝や夕方の「水汲みのゴールデンタイム」を避けるためであったろう、と多くの注解者は考える。その時は、村中のおカミさんたちが集まってひとしきり噂話に花が咲く。文字通り「井戸端会議」である。それが、彼女にとっては鬱陶しかったのであろう。なぜなら、この人はかつて五人の夫を持ち、「今連れ添っているのは夫ではない」(18)。日ごろから噂話の格好の餌にされていたことは容易に想像がつく。人のいるところに出て行くのはなるべく避けたかったのだ。

イエスは、このように村の交わりから閉め出されている女性、堂々と人中に出て行く自信もない女性に声をかけたのである。しかも、同情や憐れみの対象としてではなく、「水を飲ませて下さい」(7)と、助けを求めた。のどが渇いて、「くむ物も持たずに」(11)炎天下の井戸端に疲れて座っているこの方に水を飲ませてあげれば、「ああ、生き返ったようだ」といって喜んでくれるだろう。自分にも、困っている人を助けることができる。彼女はそう感じて、自分を取り戻し始めたのではないか。

それをきっかけに、問答が始まった。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(9)という問いから始まる一連の問答はかなりトンチンカンであり、いくらか技巧的に組み立てられているようにも思われる。だから私は、このやり取りの細部にはこだわらずに、直ちに中心部分に迫りたい。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14)。

この「永遠の命に至る水」とは何か。

自分は本当に生きているということを信じたい。いろいろ問題があって、その中で苦しんではいても、一番深いところで自分を支えてくれている真理があるということを確信したい。枯れることがない、どんな時にも我々の魂の渇望を癒してくれる真理。それは、地縁・血縁などという狭い考えから全く自由な神が、私のような価値のない者をも愛し、日々共にいて下さるというインマヌエルの原事実である。これこそが、サマリヤの女性も我々も求めて止まない「永遠の命に至る水」なのではないか。


 
 

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