祝福の法則”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、”
祝福の法則”について考えてみました。あなたは、神が人を祝福される時には、ある法則があることをご存知ですか?それは、神は人を「祝福の器」として祝福されるという法則です。「器」というのは、料理をのせる食器のように、他のものを運んだりするときに用るものです。つまり、「祝福の器」とは、神の祝福を他の人に運ぶために用いられる道具だということです。
信仰の父と呼ばれるアブラハムは、その人生において、多くの富を得た人でしたが、それはアブラハムが自分だけの祝福を願ったからではありません。彼は神の約束の言葉を聞いたとき、その神の言葉を信じて、言われた通り、遠い見知らぬ土地に移り住みました。それは彼が75歳の時でした。その神の約束の言葉というのは、アブラハムだけを祝福するという約束ではなく、アブラハムと彼の子孫を通して、地上のすべての民を祝福するという約束でした。自分がこの世を去り、後の時代に生まれて来る子孫を通して世界の人々を神の祝福にあずからせるという約束でした。つまり、自分以外の人々を神の祝福に導くという約束を受け入れ、その祝福の担い手として生きたからこそアブラハムも祝福されたのです。
ヨセフの場合はどうだったでしょうか。ヨセフは、兄弟によって奴隷として売り飛ばされるという悲惨な経験をしました。しかしエジプトで奴隷となっていたヨセフは、神の不思議な導きによって、エジプトの王パロの見た夢を解き明かし、ついにエジプトの総理大臣になりました。これはヨセフが自分だけのことを考えて生きたからではありません。神と人のために生きるヨセフを神が祝福の器として用いられたからです。神は総理大臣となったヨセフを通して、7年間の大豊作のときに食物を蓄えさせ、7年間の大飢饉が見舞ったとき、多くの人々を救ったのです。さらには、自分を売った兄弟たちを飢饉から助け出し、イスラエル民族を絶滅から守ることで、祝福を運ぶ器として用いられたのです。
私たちは、自分の祝福を望むなら、自分だけが祝福されることを求めてはなりません。ヤコブの手紙にこう書かれています。「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」(ヤコブ4:3)ヤコブは、神に祈り求めても与えられないのは、自分だけの楽しみのために使おうという間違った動機で祈り求めるからだ、と書いています。自分だけの祝福を求めても神は答えてくださいません。私たちは、祝福されたいと思えば、他の人と一緒に祝福されることを願わなければなりません。イエス様が男だけで5000人の人々を満腹にされたとき、イエス様が用いられた5つのパンと2匹の魚は、少年がイエス様に差し出したものでした。このように、人のためにと差し出されたものを神が祝福なさるのは、さらにその祝福が、周りの人々に広がっていくようにするためなのです。
今日の一言: 神は「祝福の器」を祝福される鶴田健次
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