アダムとエバの罪は、本当に禁じられた果実を食べたことなのですか?
は、神、聖書、救い、そのほかの霊的な課題を理解することの助けとなる のを願って、それに専念し、訓練を受けたボランテイヤの奉仕者から成るミニストリーです。私たちはクリスチャンです。プロテスタント、保守主義、福音派、根本主義、そして無宗派です。私たちは、教会と相並んで、霊的なことに関しての質問の答を人々が見つける手伝いをするパラ.チャーチ.ミニストリーだと自分たちを見ています。
〝禁じられた果実”ということばは、エデンの園のアダムとエバの話のことです。彼らは神から善悪を知る木から果実を取って食べてはならないと禁じられていました。(創世記2:9,3:2) 聖書はそれがどんな種類の果物か何も言ってません。伝統ではリンゴだと言いますが、確かに何の果実だったのかを知るのは不可能です。 創世記のテキストからすると文字通りの木になる文字通りの果実だったということがわかります。
この箇所のカギとなる要素は、果実そのものではなく、それを食べることを禁じられていたということです。神はその訓戒の中でたった一つだけ禁止 されました。その果実に何か霊的な物があったかどうかは、実は全く関係ないのです。罪は神の命令に背いたことでした。その果実を食べること(不従順の行い)で、アダムとエバは悪に関して個人的な知識を得ました。彼らはすでに善は知っていましたが、今やその反対の不従順の悪、それと共に罪悪感と恥を体験することになりました。 サタンの偽りは、善悪を知ることで、彼らが神のようになるということでした。(創世記3:5)現実には、彼らは神のかたちに似せて造られ、神に喜ばれる祝福をもっていたのですが。
今日の私たちにとってのレッスンは神が何かを禁じられるのは私たちのためであるということなのです。神に従わないで、自分勝手な道に行き、自分のために何が良いか何が自分のためにならないかを決めると、必ず不幸をもたらします。私たちを創造された天におられる私たちの父なる神は何が私たちのために最善かご存知です. だから神が何かを禁じられるとき、私たちは神の言われることを聞くべきなのです。私たちが神の完全で聖なるみ心よりも自分の意志に従うとき、絶対に何もうまく行かないのですアダムとエバは禁じられた果実を食べた後、悲しい発見をするのです。彼らの決断の結果、それ以来人間はずっと苦しんできました。(ローマ5:12)