紀元前587年、ユダ王国はバビロニアのネブカドレツアル王によって攻撃され、エルサレムは壊滅的な打撃を受けて陥落、ここに335年続いたユダ王国は滅亡した。そして、主だった人々は強制的にバビロニアに連行されるという憂き目を見た。これが「バビロニア捕囚」である。
約半世紀の苦しみの後で、紀元前539年、今度はそのバビロニアが新興ペルシャ帝国のキュロス王によって滅ぼされる。これによってユダヤ人は捕囚から解放され、故国に帰ることを許された。その頃活躍していたのが、今日の言葉を語った預言者イザヤである。便宜上、我々は「第二イザヤ」と呼ぶ(イザヤ書40-55章)。
第二イザヤは、長い捕囚に疲れた同胞に帰還の喜びを、そして新しい生活への希望を語った。「主に贖われた人々は帰って来て、喜びの歌を歌いながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき、喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る」(11)という言葉が端的に示している通りである。
異国での抑留生活からの解放と、故国への帰還。これがどんなに嬉しいことか、年配の方々の中には、戦後これを経験した人もいるだろう。
私の母もその一人である。彼女は敗戦の時、旧・満州にいた。当時、父は中国にいて連絡も取れず、兄は既に戦死、私は一人で東京にいたが、一番苦労したのは母で、17歳の姉と13歳の妹、11歳の弟を必死で守りながら苦しみに耐え抜き、一年経ってからようやく日本に帰って来た。帰還が決まって港に集められた時どんなに嬉しかったかを、母は生前しばしば語ったものだ。
だが、解放の喜びは決して単純なものではなかったらしい。母は満州で全てを失い、辛うじて身につけることを許されたものだけを持って帰って来た。差し当たりは実家に転がり込むとしても、今後、住まいをどうするか。生活費、仕事、子供たちの教育等々、解決すべき難問は山ほどあって、これらの心労が重なったためだろう、津軽の故郷に帰る着くや否や母は病床の人となった。故郷に帰るのは嬉しい。こんなに嬉しいことはない。だが、帰って来れば、そこにも多くの困難が待ち受けている。
バビロニアで捕囚であった人々にも、同じような不安があったと言われている。なにしろ50年も異国にいたのである。その間、故郷の家や畑はどうなっていたのか。今さら帰ったところで、ちゃんと生活できるだろうか。それよりはむしろ、このままここに残っていた方が賢いのではないか。この50年、むろん困難はあったが、それなりに生活も成り立ってもいたし、根を下ろしつつある。この一応の安定を捨てるのは考えものだ。そう考えて、捕囚民の中には帰国を断念する人も少なくなかった。
このような人々、つまり帰国を断念した捕囚民を念頭において、第二イザヤはここで語っているのである。「多くの困難が待ち受けているかも知れないけれども、お前たちはやはりエルサレムに帰るべきだ」、と彼は勧める。生活の方便のためではない。破壊された神殿を再建し、神の戒めを守って生きるという民族本来の在り方を取り戻すためだ。バビロニアでの今のささやかな安定は、所詮、仮りのものに過ぎない。そのようなところに安住してしまってはならない。本来の場所に帰れ。
「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、主の御腕よ」(9)というのは、そのための神の助けを求めるイザヤの祈りであり、また、民がこれから歩もうとしている、本来の目標に向かっての困難な道のりを神は必ず守って下さる、という約束でもある。
さて、ここで預言者は「遠い昔の日々」(9b)のことを想起させる。例えば、出エジプトだ。イスラエル民族が、エジプトでの生活、衣食住には不自由しなかったが所詮「奴隷の安心」に過ぎないような生活を捨て、自由を求めて40年の砂漠の旅を始めた時、モーセが「主よ、立ち上がって下さい…」(民数記10,35)と祈ったように、今、イザヤはこの民のために、「奮い立て…」と神に向かって求めるのだ。
イザヤはさらに言う。「ラハブを切り裂き、竜を貫いたのはあなたではなかったか」(9c)。「ラハブ」も「竜」も原始の海の怪物で、世界を脅かす混沌の力の象徴である。神はこのような混沌の力の脅威を制御して世界に秩序を与える方だ、とイザヤは言うのである。また、「深い海の底に道を開いて…」(10)というのは、明らかに紅海渡渉の奇跡(出エジプト記 14,21)を意味している。このように、神は混沌の力を制御し、あらゆる困難を克服して必ず守って下さる! だから、非本来的な現状に安住せず、遥かなる本来の目標に向かって前進せよ!
ところで、「現状に満足するな」ということは、我々の国ではしばしば、極めて世俗的な処世訓として持ち出される。「出世」や「金儲け」という利己的な目標を達成するための心構えとしてである。「イチかバチかやってみろ」とか、「人生は太く短く」などと焚きつけて、現状に満足しがちな小心な人を元気づけようとするのだ。
だが、預言者の勧めの意味は、それとは全く違う。「真心を込めて神を愛し、隣人を自分自身のように愛する」という人間の本来の在り方。イスラエル民族が目的地に向かって40年の砂漠の旅をしたように、我々も人間本来の目標を目指す遥かなる旅の途上にある。立ち止まってはならない。歩き続けねばならないのだ。
もちろん、パウロがコリントの信徒への手紙II 1,8以下で言うように、この旅の途上では多くの苦難に出会う。だが、我々は「死者を復活させて下さる神を頼りに」(9)生きていくことができるであろう。このことを信じよう。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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