クリスチャンの間では、集う教会を変えることを、とても重い決断だと捉える人も多いと聞きます。どうしてなのでしょうか?
クリスチャンの人と話していると、「集っている教会」に関する悩みをよく耳にする。教会でこんな問題がある。教会のスタイルが気に入らない。教会の人の主張に賛同できない。教会で「奉仕」という名のタダ働きをさせられる・・・等々。悩みがあるから教会に行っているのに、逆に悩みが増えているのである。かわいそうに・・・。
そんな教会にまつわる悩みの一つに、「行く教会を変えたい」というものがある。本当によく耳にする。集っている教会を変えたいと思う理由は様々だ。転勤で場所が遠くなったという物理的なもの。教会のリーダーたちの主張が自分の考え方と合わないなどの、信条的なもの。教会で用いる音楽の種類が好みではないといった礼拝会のスタイルに関わるもの。結婚したので相手の教会に行くなどの人生のステージの変化によるもの。教会の人たちとトラブルになったなどの、人間関係によるもの。中には「好きな子がその教会にいるから」といった理由もあるだろう(大いに結構だと私は思う)。クリスチャンたちは、様々な理由で集う教会を変えようとする。
しかし、その際に多くのクリスチャンたちが葛藤する。「簡単に集う教会を変えていいのだろうか」と悩む人も多い。中には、集う教会を変えることそのものが「悪いこと・罪」だと教会の人から言われ、なかなか抜け出せないという、かわいそうな人もいると聞く。「教会を変える」だけで犯罪者のように扱われるのである。「ああ、分かってくれとは言わないが、そんなに俺が悪いのか・・・」という気分だ。
かくいう私も、同じ葛藤を経験した。私は16歳でイエスと出会った。そして、目が開かれ、当時通っていた教会の主義主張が、完全に間違っていると分かるようになった。しかし、その教会では「教会を移る」のは良しとされなかった。半年以上悩み、また牧師と話し合った結果、違う教会に行く決断をした。振り返ると、自分がイエスを信じる人生において、大きな意味のある一歩だったと思う。
一体、なぜ多くのクリスチャンたちが「集う教会を変える」のをためらうのだろうか。聖書は何と教えているのだろうか。教会とはそもそも何なのか。今回は、集う教会の変更の是非について書く。
「集う教会の変更の是非」を議論する前に、簡単に「教会」とは何かをまとめたい。聖書で教会についての記述は様々あるが、私が一番最初に思い浮かべたのはこの言葉だ。
イエスは彼ら(弟子たち)に言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリスト(メシア)です」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉(人間)ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロ(石)です。わたしはこの岩(ペトラ)の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます」
(マタイの福音書 16:15~19)
イエスは、弟子のペテロに「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」と宣言した。もちろんこれは、物理的にペテロの上に教会堂を建築するという意味ではない。ペテロが死んでしまう。これは、「あなたは神の子キリスト(メシア)です」というペテロの宣言を土台とした、「イエスの信者たちの集い」が形成されるという意味だと、私は捉える。
「教会」という訳語がそもそもどんでもない誤訳だと、私はこのブログで度々述べてきた。多くは語らないが、ここで使われている単語はギリシャ語で「エクレシア」、ヘブライ語でいえば「ケヒラー」であり、日本語に素直に翻訳すれば「集い」とか「集会」とか「会衆」という意味である。
しかし、同様の単語は素直に「集まり」とか「集会」と訳されているのに、なぜか特定の箇所だけ「教会」となってしまっている。聖書の言葉を人間が意図的に捻じ曲げているのである。これはいただけない(※これについて、詳しくは記事の最後に過去記事リンクを掲載したので、参考にしていただきたい)。
イエスは、ペテロに「あなたの(信仰告白)上にわたしの教会を建てる」と宣言した。その後で、「天の御国の鍵」について語るが、いまいち意味が不明瞭だ。これについて、実は後でイエスは別の言葉を語っている。そこも見てみよう。
まことに、あなたがた(弟子たち)に言います。何でもあなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。
(マタイの福音書 18:18~20)
私は、この18章の言葉は、16章の言葉に対応していると考える。まとめてみよう。
<16章>
・イエスをメシアだと告白した宣言を基礎として、信者たちの「集い」が形成される。
・あなた(イエスをメシアと告白する者)が許容することは、天でも許容されている。
<18章>
・あなた(イエスをメシアと告白する者)が許容することは、天でも許容されている。(16章との対応を示す)
・2人か3人がイエスの名前で集うところには、イエスもその中にいる。
この際、「天の御国の鍵」については、別記事を書くのでスルーしたいと思う。大切なのは、それを結合の根拠として見た際の、前後のつながりだ。「イエスをメシアと告白する者(ペテロ)を基礎として、信者たちの『集い』が形成される」と宣言した。そして、「何でもあなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます」という言葉を「つなぎ」として語った。何をつなぐのか。「まことに(アメン)もう一度言う」と強調した上で述べた言葉がポイントである。それは、「2人か3人がイエスの名前で集うところには、イエスもその中にいる」というメッセージである。
これは、ユダヤ人にとってはパラダイムシフトだった。ユダヤ教は、元来「10人」を一単位として「集会」を形成していた。シナゴーグでの儀式は、10人集まらないと開始できなかった。これは、アブラハムが神と交渉した際、10人を最小単位とした故事に由来する(創世記18章参照)。
しかし、イエスは「2人か3人の”人間関係”が集いを形成する」と述べたのであった。これは革命である。結論を述べれば、「イエスを信じる者が2人以上集まれば、それは”教会”であり、イエス自身もその中にいる」とイエス自身が宣言しているのである。他にも根拠は様々あるが、簡単にまとめると、私が定義する「教会」とは以下のようになる。
<”教会”の定義>
・イエスをメシアと告白する者が集まる「集い」が「教会」である。
・最少人数は2~3人。人が複数集まり、信者同士の人間関係が「教会」である。
・その中にイエスの存在がある。
・「教会」は誤訳であり、漢字の意味合いから誤解を招きやすいので「集い」とか「集会」とか「集まり」とかがふさわしい。現代の日本文化に照らし合わせれば、「チャーチ」もギリギリ許容範囲かもしれない。
・もっとも、今から日本語を変えるのは相当難しいので「教会」という表現は仕方ないとは思う。このブログでも便宜上「教会」という単語は使用している。
では、この価値観をもとに、「集う教会の変更の是非」について考えてみよう。
結論から言えば、集う場所や環境を変えるのは、全く悪いことではない。聖書にはどう書いてあるのか。実は、「集う教会の変更の是非」については、全く記述がない(と私は思うが、間違っていたらご指摘願いたい)。強いて言えば、以下のような記述がある。
約束してくださった方(神)は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。
(ヘブル人への手紙 10:23~25)
この聖書の言葉からは、イエスを信じる者たちが集まる理由について書かれている。もちろん、集まる理由は他にもたくさんあるが、ひとまずこの部分に書いてある点をまとめよう。
<信者同士が集う理由>
・希望を告白するため(当たり前だが、イエスによって赦されている、イエスがいつの日か地上に王として帰ってくるという希望であり、この国の政治が変わるなどという小さな希望ではない)
・愛と善行を促すため互いに注意を払うため
・互いに間違いを指摘するため(マタイ18章のイエスの言葉を参照)
・励まし合うため。特に、イエスが王として帰ってくる日を待ち望み、互いに励まし合うため。
これらの理由のために、「自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう」と書いてある。「特定の教会に通い続けなさい」などとは書いていない。「集まるのをやめずに励まし合おう」と書いている。ここが大切だ。
つまり、「励まし合う」という目的のためなら、集う場所や環境を変えるのは全く悪いことではないのである。大切なのは集まり続けることであって、特定の場所やグループにこだわることではない。2人か3人が集えば、それはもう立派な「イエスを中心とした集い」すなわち「教会」なのである。人と人の「つながり」の間に、イエスがいるのであり、「神の国」が実現するのである。
さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」
(ルカの福音書 17:20~21 新改訳聖書3版)
正直、教会のリーダーたちが「簡単に集う教会を変えないように」とプレッシャーをかけてくるのは、自分たちのためだ。教会の人数を維持したい。献金額を維持したい。他の信者たちに顔向けできない。1人抜けると、芋づる式に出ていってしまうのは困るなどといった、至極、自己中心的な理由である。そんなプレッシャーに困っているクリスチャンの方がいたら、ぜひ勇気を持って一歩を踏み出してほしいと思う。
こういう議論をすると、すぐに「教会はキリストのからだである」「キリストのからだを分裂させるな!」「分裂を招くな!」とか言う人がいる。ため息しか出ないが、一応、反論しておこう。
「キリストのからだ」という言葉は、以下の聖書の言葉から来ている。
また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会(信者の集い)に与えられました。教会(信者の集い)はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。
(エペソ人への手紙 1:22~23)
キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。
(エペソ人への手紙 4:16)
まず「キリストのからだ」という言葉の意図は、主に2つだと思う。
1:信者の人間関係の中心にいるのはイエスである。教会の中心、かしらはイエスである。
2:信者の集いの中には、それぞれに違う役割がある。信者の集いは、イエスによってひとつとなり、成長していく。
「からだ」という比喩には、「それぞれ違う機能や役割がある」という意味が込められている。「みんなちがって、みんないい」というやつだ。そして、イエスこそが集いの中心であり、目的であり、共通点なのである。
こう考えれば、「イエスを信じる集まり」はどんな場所や環境であっても、本来は「ひとつ」のハズである。ただ集まっている場所が違うだけで、イエスという共通項は同じである。違う教会であっても、イエスを信じているという点では広義の「同じキリストのからだ」なのである。だから、「集う教会を変えること」は「キリストのからだを分裂させること」にはならない。
新約聖書では「分裂に注意せよ」と何度も忠告されているではないか、という反論もあろう。しかし、それは少し認識がズレている。新約聖書で批判されているのは、「イエスから引き離す分裂」であり、「違う教会に行くこと」ではない。イエスから引き離したりすれば、それは当然「分裂を招いている」といえるだろう。イエスを信じる者の集まりが「教会」なのだから、イエスを信じなかったら教会でなくなってしまう。当たり前の話だ。異端やカルト、間違った教えには注意が必要だが、「違う教会に行く」という行為そのものは、聖書のいう分裂には当たらない。
そもそも、聖書の時代の「教会」は現代のような組織的なものではなく、もっとゆるやかな、いわゆる「家の教会」であった。イエスを信じる者たちは、それぞれの家に集まり、食事をともにし、聖書や神について語り合い、イエスが戻ってくる日を待ち望みながら励ましあっていたのである。現代は現代にふさわしいスタイルがあると思うが、もっとゆるやかな「信者同士のつながり」を教会としてもいいのではないか。聖書時代の教会は、各エリアごとにゆるやかなまとまりがあり、それぞれの地域の人々が、ゆるやかな連帯でつながっていたのだと想像する。そう考えれば、現代においてどの教会に行こうが、一向に構わないのではないか。イエスを信じているという点で、共通しているのだから。
ただ、別の教会に集うと決断した際は、いわゆる「ケンカ別れ」ではなく、ポジティブに移った方が、様々な意味で良いだろう。「同じキリストのからだ」なのであるから、本来は喜びをもって送り出し、迎え入れるのが理想である。丁寧に理由を説明し、集う場所や環境を変えれば、以前の人間関係も維持できるので、オススメだ。ネガティブな理由であっても、ポジティブな形にすることは可能である。表面上もネガティブにしてしまうと、往々にして次の場所でも上手く行かなかったりする。集う教会を変える際は、多少めんどくさくても、丁寧かつ円満な対応をするようオススメしたい。
違う教会に行く行為、集う教会を変更する行為は間違っていない。しかし、聖書にはこうも書いてある。
「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。
(コリント人への手紙第一 10:23)
集っている教会を変える行為は、果たして「益」となるのだろうか。メリットとデメリットについて、簡単にまとめてみた。
<集う教会を変更するメリット>
・自分になじみのあるスタイルの礼拝会を行う教会を選べる(スタイル)
・地理的に近い教会を選べば、時間の節約になり、負担が減る(地理的要因)
・めんどくさい人間関係からオサラバできる(人間関係)
・新しい人間関係に飛び込める、つながりが広がる、成長につながる(人間関係・成長)
・自分が慣れ親しんだスタイルや教えから脱却し、新しい視点や価値観を養える(新しい価値観)
・もし間違った教えをする教会にいたのであれば、そこから脱却できる(信条的要因)
人間は、自分が関わる人たちから多かれ少なかれ影響を受ける。人は人間関係の中で成長する。集う教会を変えるという行為は、すなわち人間関係を変えるという行為である。新しい人間関係に飛び込めば、新しい刺激がある。自分が知らなかったスタイルに出会う。違う考えの人間と出会う。聞いたことのない聖書の解釈や教えと出会う。新しい視点や価値観を養える。実は集う教会を変える行為は、メリットがおおいにある。
私は、両親の引っ越しや自分の上京、留学などの地理的理由から、様々な教会に通ってきた。正式に所属した教会だけでも、10以上になるだろうか。中には、先に書いた韓国系の教会のように、教えに賛同できず行くのをやめたところもある。しかし、行った全ての教会での経験、学びは無駄ではなかった。独立した教会にも集ったときもあるし、団体に属してる教会にも行った。いわゆる「福音派」の教会にも行ったし、いわゆる「聖霊派」の教会にも集った。様々な教会に行くことで、多様な視点と価値観、スタイルを学んできた。まだひとつの教会しか通ったことのない人は、ぜひ機会があれば別の教会も覗いてみると、面白いと思う。
人がみな違うように、教会もみな違う。特に日本は、同じグループに属していても、教会によって特色が大きく違う。今まで通ったことのないスタイル・カラーの教会に言ってみれば、思いもよらぬ出会いやつながり、成長があるかもしれない。
しかし、教会を移り変わるのは「諸刃の剣」で、デメリットもある。見てみよう。
<集う教会を変更するデメリット>
・自分になじみのあるスタイルの教会ばかりを選ぶと、なじみのないスタイルの教会の人たちとの関わりを、避けるようになってしまう危険性がある
・負担を避けるあまり、集うこと自体をやめてしまう危険性がある
・めんどくさい人間関係を避けてばかりいると、人として成長しない恐れがある
・人間関係を継続できればいいが、断絶を繰り返し続けると、いつの間にか人間関係を維持できなくなってしまう危険性がある
・自分が慣れ親しんだスタイルしか受け付けなくなる可能性がある
・「間違った教え」ばかりに気を取られると、いつの間にか判断基準が「聖書」ではなく「自分」になってしまう危険性がある
あえて、メリットと対応したデメリットを挙げてみた。どれも気をつけなければいけない「危険性」ではある。確かに聖書にも「苦難を通して人は成長する」(ヘブル12章など参照)と書いてあるし、人間関係の大変さから逃げ続けたら、成長はないかもしれない。ときに、トラブルや争いは、人を成長させ、人と人の結びつきを強くする。
しかし、いずれも「~の恐れがある」という、可能性の話である。「集う教会を変える」ことを禁止する理由にはならないと、私は思う。このようなデメリットには気をつけつつ、個々が神に祈った上で、行動を決めていけば良いと思う。また、ひとつの教会に留まらず、様々な教会を転々とする、いわゆる「チャーチ・ホッパー」の是非については、別記事を書こうと思う。
では、「どんな教会に行けば良いのか」という疑問があるだろう。画一的な答えなどないが、以下、私が参考にしたら良いと思う点を簡単に挙げる。
1:地理的要因
集う場所が家から近いかどうか。これは意外と、めちゃくちゃ大事である。よく無理をして遠い教会に集っている人がいるが、私は「よくやるなぁ」と関心する。集う場所が近い方が、圧倒的に精神的、肉体的、時間的に楽だ。遠い教会に通い続けるのは、案外大変だ。漫画「スラムダンク」の登場人物「流川」(ルカワ)は、「近いから」という理由でバスケが強くもない高校へ進学したが、教会の選び方も、案外そんな理由で良いのかもしれない。
2:礼拝会などのスタイル的要因
教会の礼拝会のスタイルも重要だ。自分が本当に神に心の照準をあわせられるか。スタイルが合わないと、どうしても気が散る。先に挙げたように、互いに愛と善行を行い、励まし合うという目的が達成できなければ、自分に合う場所を見つけた方が良いだろう。特に礼拝会の進め方や音楽のスタイルなどは、教会を選ぶ際に大切な要因の一つとなってくる。
3:教義的要因
教会がどのように聖書を教えているかは、とても大切なポイントのひとつだ。牧師などの教会のリーダーが、聖書について語る(説教・メッセージ)場合が多いが、何度か聞いてみて、学ぶ点があるかないか見極めたら良いだろう。もし、何度か参加してみて「この教えは違うな」と感じたら、その教会に通うかどうか再考してみた方が良いかもしれない。
4:人間関係的な要因
教会の主体はイエスだが、イエスがいるのは人間関係の中である。教会の主眼は、そこにおける人間関係と言っても過言ではない。どんな人がいるのか。自分はその人たちと上手くやっていけるのか。年齢層はどうか。自分はその教会のターゲット層なのか否か(年齢、ライフステージ、性別、考え方、社会的立場、パッション、ビジョン、などなど・・・)。自分は、同じ年代を求めているのか、それとも違う年代を求めているのか。よく考えて決める必要がある。人間関係が悪い集まりに関わり続けることほど、辛いものはない。
5:組織の運営的要因
教会がどのように組織を運営しているかを見る必要もある。例えば、教会ではどのようにメンバーを育成しているか、吟味したら良いだろう。教会のビジョンは何か。教会が大切にしているものは何か。献金のシステムはどうか。支援している団体はどこか。様々な点から、教会の運営面を見る必要がある。
「スモールグループ」(小グループ班に分かれて個人的な話しや相談ができるシステム)やそれに準ずるものがあるかどうかは、非常に大切である。教会とは、やはり個人的な人間関係を築く場だからだ。特に人数が多い教会ほど、スモールグループの有無は重要だ。ただ日曜日に行って、礼拝堂の席に座って誰とも話さず帰るだけでは、私はもったいないと思う。
6:神に祈って決める(一番大事!)
最後だが、最も大切なのは、自分自身が神に祈ってから決めるというものだ。もちろん、どこの教会に行くかは究極的には自由だと思う。しかし、全ての決断を神に祈って委ねるという姿勢は大切だと、私は思う。基本的には「ここの教会に行きなさい」というような声が聞こえるわけではないが、決断に祈りが伴うか伴わないかは、大きな違いである。
他にも教会選びのポイントはあるが、基本的にはこの6つに集約できると思う。読者の方がそれぞれ、神と真剣に向き合い、イエスに対する希望を告白するために、一人ひとりが最善の集まりに導かれるよう、願っている。
クリスチャンではない方は、ぜひ一度、近くの教会に足を運んでみることをオススメしたい。教会って、行ってみると意外と面白い。教会に乗り込んで、聖書について、イエスについて、神についてあれこれ質問して、議論してみよう。めちゃめちゃ不思議で、楽しい集まり。それが「教会」である。
<参考リンク>
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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