「光」とは、ヨハネ福音書においては、端的にイエスのことである。
ヨハネ福音書の記者はその冒頭に、イエスの誕生を比喩的に表現して「光は闇の中で輝いた」(1,5)と言った。また、イエス自身は、「わたしは世の光である」(8,12)と言う。その他にも、この福音書には「光」について語った言葉が沢山あるが、すべてイエスのことを指している。
何故、イエスは「光」と言われるのか。
先ず注目したいのは、「光」と「命」の関連である。イエスは「命の言葉」を語った。その「命の言葉」が人々に「光」を照らした。「命は人間を照らす光であった」(1,4)という表現には、この意味も含まれている。
だが、彼は単に命の言葉を「語った」だけではない。十字架上で、彼は自らの命を与えた。正にそのことによって、彼は世界に命を与え、人間を照らす光となったのである。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12,24)と言われている通りだ。彼は自らの命を与えることによって人に命を与え、世の光となり、そして、「多くの実を結んだ」のであった。
このように、ヨハネ福音書においては、「光」と「命」は同じ意味だ。
ここで私は、皆さん方と同じように、去る26日にJR新大久保駅のホームで起こった出来事を思い起こす。
一人の人が線路に転落した。近くにいた写真家・関根史郎さんと、韓国人留学生の李秀賢(イ・スヒョン)さんが咄嗟の判断で飛び降り、その人を助けようとしたが間に合わず、三人とも死んだ。まことに痛ましい事故である。両親や家族の悲しみは、どれほど大きなものであったろうか。
李秀賢さんのお母さんは、「無駄死にだ」と嘆いたと伝えられる。結局助けることはできなかったのだから、一見、そう見える。だが、この出来事は多くの人々の胸に深い感動を与えた。胸に灯った光は、自分たちの自己中心的な生活をあらためて照らし出した。国境を越えて捲き起こった感謝と感動の渦を見る時、この人たちの尊い命は無くなったけれども、決して「無駄死に」ではなかったと信じられる。イエスが「死ねば、多くの実を結ぶ」と言われたことの意味が分かるような気がする。
この事故の数日後、京王線の「つつじが丘」駅で妊娠中の若い女性が急に失神して、同じように線路上に転落した。偶々それを見た一人の男性が飛び降り、何人かが協力して、わずかの差で無事に助け上げたが、その時、線路に降りた人は、ちらと新大久保駅の事故を思ったという。自分もここで死ぬのではないか。だが、彼は全力を尽くした。自分の安全や利益のことしか考えようとしないこの世界の中に美しい光が灯り、それが周りを照らしていることの証明ではないかと、私は感じている。
口先の言葉やスタンド・プレーは、決して人を動かすことができない。命が賭けられた言葉・命を賭けた行動だけが、この暗い世に光をもたらすのである。ここでも、「光」と「命」は切り離すことはできない。
さて、今日の「光」に関する言葉は、「受難物語」の一部である。
今日の個所のすぐ前、12節以下には、イエスが苦しみを受けるためにエルサレムに入った時のことが記されている。この話は、他の福音書ではもう少し後の方に出てくるのだが、ヨハネでは既にここから「受難物語」が始まるのである。
その直後に、さっき引用した有名な「一粒の麦」の譬え (24) が語られ、それに続いて、「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救って下さい』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現して下さい」(27)というイエスの祈りが来る。これは、「ゲッセマネの祈り」(マルコ 14,32以下)のヨハネ版だ。 「光は、いましばらく、あなたがたの間にある」(35)というイエスの言葉も、彼の死が遠くないことを暗示している。
だが、イエスはここで、「私が死んでしまったらもう暗黒だ。望みはない」という悲観論を述べているのではない。むしろ、逆だ。彼が自らの命を与えることによって、つまり、彼の受難によってこの暗い世界に「光」が来ることを証言しているのだ。
イエスの死はこの世に、愛と命と光をもたらした。十字架と愛と命と光。これらは緊密に結びついていて、切り離すことができない。「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された」(3,16)という福音。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13,34)、また、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15,13)というという新しい戒め。これらは一体なのである。このことを受け入れて、光を信じ、光の中を歩む。これが私たちの生き方に他ならない。
だが、私たちの世界はしばしば、「暗闇」に支配される。「暗闇」とは、この「光」を受け入れようとしないこと、自己の命を与えることをあくまでも拒否する代わりに、自己の利益のために他者の命を食い物にする生き方である。この「暗闇に追いつかれないように」(35)、とヨハネは勧める。
光の中を歩いていないと、暗闇に追いつかれる。ギリシャ人は、チャンスを真正面から捕まえることを考えていた。ユダヤ人は、暗闇が後ろから追いかけてくるという、人生の不気味な一面を知っていたのである。だから、光を信じなさい!
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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