クリスチャンはコンドームを使ってはいけないの? そんな質問をされた経験があります。聖書は何と書いているのでしょうか?
クリスチャンですと自己紹介すると、様々な質問をされる。「日曜日教会行くの?」とか、「家族もキリスト教なの?」とか、「カトリックとプロテスタントってどう違うの?」などと、何度も聞かれる。ある日、少しトリッキーな質問をしてきた人がいた。「クリスチャンはコンドーム使っちゃダメなの?」というものだった。言い換えれば「クリスチャンは避妊していいのか、ダメなのか」という問いかけである。ナルホド。世間一般では、クリスチャンになると「避妊」もダメと思われているのかと勉強になった。面白い。
しかし、なぜ「避妊してもよい」と言えるのか。もしくは、なぜ「避妊してはダメだ」と言えるのか。正直言うと、正面からキチンと考えては来なかった。この機会に、考えてみようと思った。
今回の記事では、少しデリケートだが、この「避妊」について書く。断っておくが、この記事は「婚前交渉の是非」や「中絶の是非」がテーマではない。あくまでも「結婚している夫婦が避妊をすることの是非」についての記事である。その点をご留意いただきたい。
また、以前このブログの記事について「体験していないことを、いかにも体験したかのように書くのはいかがなものか」という批判が寄せられた。その是非は置いておいて、同様の批判に対して先に答えを書いておく。私は男性である。そして現在に至るまで、女性と性関係を持ったことはない。ゆえに、いかなる方法によっても避妊の経験はない。避妊の経験はないが、あえて避妊についての記事を書くのだと、先に宣言しておこう。
今回は、聖書で避妊をした例はあるのか、そもそも避妊は悪いことなのか、聖書の価値観は何かという観点で、記事を書いていく。また、子どもを産むことについては、様々な事情が、それぞれの夫婦、家族にあるだろう。産みたくても産めない人もいる。産みたくなくても、様々な事情で妊娠し、結果的に産む決断をする人もいる。それぞれに、複雑な事情が存在する。だから、この記事でも決して断定的に「避妊はダメだ」とか「避妊すべきだ」とか言うつもりはない。それぞれにデリケートな事情があるのは、百も承知である。この記事は、決してそういう方々を糾弾するためのものではないことは、分かっていただけたらと思う。
ただ、一般論として、クリスチャンは「避妊」をどう考えたらよいのか、議論はすべきだと思う。だから筆を執った次第である。この記事を読んで、傷つく人がいないよう願っている。
聖書に避妊をした例はあるのか。実は存在する。まずは、その例を見てみよう。
ユダはその長子エルに妻を迎えた。名前はタマルといった。しかし、ユダの長子エルは主<しゅ>の目に悪しき者であったので、主は彼を殺された。ユダは(次男の)オナンに言った。「兄嫁のところに入って、義弟としての務めを果たしなさい。そして、おまえの兄のために子孫を残すようにしなさい」しかしオナンは、生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入ると地に流していた。彼のしたことは主の目に悪しきことであったので、主は彼も殺された。ユダは嫁のタマルに、「わが子シェラ(三男)が成人するまで、あなたの父の家でやもめのまま暮らしなさい」と言った。シェラもまた、兄たちのように死ぬといけないと思ったからである。タマルは父の家にいき、そこで暮らした。
(創世記 38:6~11)
これは、男の子が大好きな「オナン」のエピソードである。オナンは、自慰行為「オナニー」の語源となったとも言われている(本当かどうか知らないが)。私のクリスチャンの友人A氏は、好きな聖書の登場人物を聞かれた際「オナンかな!」と元気よく答えていたが、意味の分かった者だけが笑っていた。これで笑えるのは、相当聖書を読んでいる人であろう。
冗談はさておき、これは次男のオナン(図らずしも韻を踏んでしまった)が、長兄に子孫を残さなかった話である。オナンの父はユダ。ユダはヤコブの子どもである。アブラハムを起点として見てみよう。
<オナンの系図>
アブラハム(高祖父)
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イサク(曽祖父)
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ヤコブ(祖父)
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ユダ(父)
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エル(長男)、オナン(次男)、シェラ(三男)
オナンは、アブラハムの玄孫(やしゃご・孫の孫)である。この世代の400年後にモーセが登場するので、まだ旧約聖書の律法が確立するより、ずいぶん前の話だ。日本で400年前というと、ちょうど江戸時代が始まった頃なので、その感覚が伝わるだろうか。
まだモーセの律法が確立する前、アブラハムの家族には、長男が家を引き継ぐという風習・伝統・ルールがあった。その目的は、おそらくはアブラハムが神と交わした契約の祝福と義務を、後の世代まで受け継ぐためであったのだろう。アブラハムから脈々と引き継がれた契約を受け継ぐ対象は、基本的には長男であった(しかし、神の計画は皮肉なもので、往々にして長男じゃない人が受け継いだりするのだが・・・)。
長男が子どもを授からず死んだ場合はどうするのか。「長男の兄弟」が「長男の妻」と結婚し、「長男の息子」を「代理に産んで家を引き継がせる」という風習が、彼らにはあった。これは「レビラト婚」という風習で、まるめて言えば「寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する風習」といった感じだ。
この頃は、モーセの律法は成立していないが、後にモーセ時代の律法でも同じ決まりが規定されている。
兄弟が一緒に住んでいて、そのうち一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。
(申命記 25:5~6)
レビラト婚の目的は、「長男の子どもを残す」というものであった。つまり、オナンがタマルとの間に産むはずの長男は、オナンの子孫ではなく、エルの子孫としてカウントされる手はずになっていたのである。
日本にも似たような習慣があった。例えば私の祖父は四男なのだが、次男(祖父の兄)には子どもが産まれなかった。だから、私の祖父の長男(私のおじ)は、戸籍上は次男の養子に入った。四男である私の祖父の子孫よりも、次男の子孫を残すのが、一家として優先事項だったのである。「レビラト婚」は、日本人にとっても決して関わりのない文化ではない。
さて、オナンの話に戻る。オナンは自分が子どもを産んでも、自分のものにならないと知っていた。それゆえ、オナンは「兄嫁のところに入ると、地に流していた」とある。オナンは、いわゆる「膣内射精」(中出し)をせずに、「膣外射精」(外出し)をしていたのである(つまり、厳密に言うと「オナニー」ではない)。
神はオナンの行動をどう評価したのか。
彼のしたことは主の目に悪しきことであったので、主は彼も殺された。
(創世記 38:10)
こう書いてある。オナンの行動は神の目には悪であった。では、オナンの行為のどこが悪だったのだろうか。避妊そのものが悪いことなのか。その点を見ていこう。
ちなみに、この部分だけ読むと「嫁のタマルがかわいそうだ」と思う方もいるかもしれない。ごもっとも。しかし、ご安心を。タマルは知恵を働かせ、なんと義父のユダとの間に子どもを設けるのだ。実は、その子どもがメシアであるイエスの祖先となるのであった・・・。興味のある方は、創世記38章とマタイの福音書1章を読んでみてほしい。
オナンの行動はなぜ悪とされたのか、その「動機」に焦点を当てて考えてみたい。オナンの行動の前に、大前提となった神のことばを振り返って見てみよう。
神は彼ら(人、男と女)を祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ」
(創世記 1:28)
神が人に最初に命じた基本的命令は「生めよ。増えよ。地に満ちよ」であった。当時の価値観では子どもは神からの祝福であり、逆に子どもが産まれないのはネガティブな事であった(今回、その価値観の是非を問うつもりはない)。
さて、そんな中でのオナンの行為である。オナンの動機については、実は明確な記述がある。もう一度見てみよう。
しかしオナンは、生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入ると地に流していた。
(創世記 38:9)
オナンの目的はハッキリしている。「兄に子孫を与えないように」というものだ。おそらくオナンは、自分の子にならないのが「しゃく」だったのだろう。以上の点をふまえ、なぜオナンが神の目に悪とされたのか、まとめてみる。
<オナンはなぜ悪とされたのか>
1:長兄のために子孫を残すという、明文化はされていないが、確実に把握していた風習・ルールに逆らった
2:アブラハムの直系の子孫でありながら、神からの祝福・神との契約を受け継ぐための子孫を残そうとしなかった
3:「産めよ。増えよ。地に満ちよ」という神の基本命令に対し、生殖能力があり、法的な妻も存在したにも関わらず、それを個人的な「しゃくに障る」という理由で拒否した
4:神が悪と定めたから
オナンが悪とされたのは、おそらく2番目の「神とアブラハムの契約を受け継ぐ子孫を残そうとしなかったから」というのが、最大の理由であろう。いずれにせよ、最後にあえて明記したように、究極的には神が悪と定めたから悪なのである。善悪を定めるのは主権者である神ただお一方である。
「避妊の是非」という本題に入る前に、もうひとつだけ聖書の価値観を確認したい。「子どもは誰が授けるのか」という問題である。
聖書で、子どもは「胎の実」(ルカ1:42)と呼ばれる。そこで、「胎」という単語に注目して聖書を調べてみた。
「胎」という単語は、ヘブライ語で「レヘム」という。旧約聖書では少なくとも31回登場する。新約聖書ではギリシャ語「コイリア」(「お腹」の意味)が24回登場し、英語のKJVという翻訳では、そのうち12回が「胎」の意味で用いられている。では、どんな意味合いで用いられるのか。いくつかピックアップしてみた。
そこで、アブラハムは神に祈った。神は、アビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒やされたので、彼らは再び子を産むようになった。主<しゅ>が、アブラハムの妻サラのことで、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたのである。
(創世記 20:17~18)
主<しゅ>はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれたが、ラケルは不妊の女であった。
(創世記 29:31)
神はラケルに心を留められた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。
(創世記 30:22)
聖書の価値観のひとつは「子どもを産むも、産まないも、神の決定による」というものだ。母の胎を開くも閉じるも、神が決めるものなのだ。「胎」に関わる文章のほとんどは、比喩的な詩文を除けば、ほとんどが「神」または「主<しゅ>」が主語となっている。子どもを授かるのも、神の決定。子どもが何らかの理由で授かれないのも、これまた神の決定。聖書はそう書いている。
見よ、子どもたちは主の賜物。胎の実は報酬。
(詩篇 127:3)
また、神は子どもが胎内にいる時から、その存在をご存知である。聖書を見てみよう。
神である主<しゅ>よ、あなたは私の望み、若い日からの拠り所。私は産まれたときから、あなたに抱かれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。
(詩篇 71:5~6)
あなた(神)こそ、私(ダビデ)の内蔵を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です。私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって、恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私が隠れた所で造られ、地の深い所で織り上げられたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
(詩篇 139:13~16)
次のような主のことばが私(エレミヤ)にあった。「わたし(神)は、あなた(エレミヤ)を胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた」
(エレミヤ書 1:4~5)
神は、人が胎内にいる時から、いや、その前からその存在をご存知である。神ご自身が母の胎内で、あなたを形造り、あなたという存在を誕生させ、あなたという存在を大切に思っていて下さっている。これが、聖書の価値観である。つまり、産まれた者はみな神が産ませたのである(これは決して、「神が産ませない者は産まれない。だから中絶は神が認めているのだ」という結論には帰着しない)。
あなたという存在は、神が形造ったのである。それは神の恵みである。
さて、以上の点をふまえて、本題に入ろう。避妊は悪いのか。オナンの事例から、果たして避妊は悪いと言えるのか。オナンの事例は、現代の「避妊」に当てはまるのか。見ていこう。
現代において、なぜ「避妊」をするのか。繰り返すが、この記事のテーマは「結婚している夫婦の避妊の是非」なので、未婚の性交渉については今回は議論しない。結婚している夫婦の避妊の目的について、未経験者の私が想像できる限り書いてみた(現代の日本人カップルを想定している)。
<結婚している夫婦が避妊をする理由>
・新婚時代は2人きりで過ごしたいから
・子育てはもう少し年齢を重ねてからしたいから
・子育てができる経済的基盤がないから
・そもそも子どもを産み育てるつもりがないから
・子どもが嫌いだから
・海外、特に発展途上国などに長期滞在予定で、安心して子どもを産み育てられないから
・妻が妊娠に耐えうる健康状態ではないから
・子どもを産み育てるより、優先したい夢などがあるから
・子どもを産みたくない以外の理由があるから(生理をコントロールしたい、病気予防など)
・何らかの事情があり、コンドームをした方が安全な性行為ができるから
・その他の理由(筆者の逃げ)
さて、これらの理由はオナンの動機と合致するのだろうか。私は個人的な意見として述べるが、必ずしもオナンの事例は現代の避妊すべてに当てはまるものではないと思う。オナンの動機は「至極、自己中心的なもの」であり、「神とアブラハムの契約をないがしろにするもの」であり、「兄への責任を果たさない行為」であった。
では、現代の避妊は「自己中心的」といえるのだろうか。必ずしも、そうではないと思う。上に挙げたように、様々な事情がある。人によっては「経済的保証がない中で、子どもを作るのは、それこそ自己中心だ」「子どもの未来を経済的に保証できるようになってから子作りをすべきだ」と考える人もいるだろう。私はその考え方に対して、個人的に思うところはあるものの、積極的に否定する材料を持ち合わせていない。
例えば、女性の体調面の事情で「避妊的」な行為をする場合がある。「低用量ピル」なども最近は話題になっている。少し前に、TBSの「クレイジージャーニー」という番組で、アマゾンの「カヤポ族」について紹介していた。それによると、カヤポ族は「生理の出血」を汚れとみなした末に、「生理の出血は止めるが、排卵は継続できる薬」を開発しているらしい。「妊娠できる生理コントロール」が可能になれば、生理の様々なネガティブな現象に苦しむ女性にとって、素晴らしい朗報に違いない。世界中の製薬会社が彼らのレシピを欲しがっているが、彼らは決して明らかにしないそうだ。
また、男性側に何かしらの事情があり、コンドームを使用するケースもあるだろう。そういった様々な「健康的理由による避妊」も、これまた否定できるかと言われると、私は自信がない。
他にも、夫婦2人の時間を一定期間持ちたいというカップルもいるだろう。核家族化が進んでいる日本では、子どもができると、夫婦2人の時間を持つのは困難だ。「乳母」という言葉も、もはや死後になりつつある日本では、子ども1人だけでも、働きながら世話をするのはとても大変だ。特に都市部では、子どもを保育所へ預けたくても、慢性的な人手不足と保育所不足により、預けられない状態が続いている。子ども1人だけでも、大変なのだ。
聖書は、夫婦の時間を持つ大切さを、このように書いている。
人が新妻を迎えたときは、その人を戦に出してはならない。何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、迎えた妻を喜ばせなければならない。
(申命記 24:5)
なんて素敵な言葉ではないか。この言葉を理由に、1年間の「新婚休」を取得できれば良いのだが・・・(涙)。
聖書は、夫婦だけの時間を否定はしていない。しかも、この「喜ばせなければならない」の言葉には、当然、セックスも内包されているのは明らかだ。セックスをすれば、子どもができるかもしれない。であるならば、夫婦で話し合い、子作りをする時期をある程度「避妊」によってコントロールするのは、悪い行為ではないと、私は思う。
聖書には、他にも「夫婦のつとめを減らしてはならない」(出エジプト21:10)とか、「夫も妻も互いに対して義務を果たせ。夫も妻も互いに自分のからだについて権利は持っていない」(第一コリント7章)と、夫婦の間でのセックスを推奨する記述が様々ある。夫婦間のセックスは、神が創造したものであり、人はこれを喜んで享受するものである。したがって、聖書が夫婦間のセックスを推奨しているのならば、なぜ避妊は禁止されなければならないのか。実は、避妊を禁じる明確な根拠が、聖書の中からは見つからないのである。
しかし、同時に「子どもは神が授けるもの」という価値観に立つと「避妊する意義はどこにあるのだろう」という疑問は当然わいてくる。私自身は、自分が結婚して避妊をするかと問われたら、「しない」と答える。私個人としては、現段階では「避妊」に積極的な意義は見いだせない。子どもは神が与えるのだから、神が定めたタイミングで授かるし、授からないのであれば、授からないまでだ。ただ、これは個人的な立場であって、普遍的に誰にでも適用できる考え方ではないのだろう。
子どもは神が授けるもの、という価値観に立つと「人間が出生をコントロールする避妊は、越権行為ではないか」「命の可能性をムダにするのか」と思う人もいるだろう。一定の理解はできる。しかし、そんなことを言ったら、排卵・生理はどう考えるのか。妊娠する可能性があるが、性行為を持たず、または性行為を持っても着床しなかった場合、排卵される。排卵された卵子は生理となって体外に出される。その卵子は、ムダになったのだろうか。そんな無茶苦茶な。
精子はどうか。男性が精子を腟内に出さなければ、それは命をムダにする行為なのだろうか。そうではあるまい。もしそうであったら、ほとんど全ての男性が罪悪感と戦わなければなるまい(性的な理由の自慰行為の是非は別として、あくまで精子の膣外排出という視点で)。ましてや、夢精という意思ではコントロールできない生理現象だったあるわけなのだから。
こう考えると、オナンが咎められたのは「膣外射精」という行為そのものではないと結論づけられるだろう。オナンが悪とされたのは、彼の心だったのだ。アブラハムの契約・祝福を受け継がず、兄への義務を果たさず、神の命令を無視した。その心の動機が悪かったのであり、決して「避妊」そのものが悪いとは断言できない、と私は思う。
結局のところ、「心の動機」が全てだと言うほかない。神は心を見る。神はオナンの心を見て、悪とした。自分の心の動機はどうだろうか。常に自分の心をチェックしながら、愛している夫や妻と相談し、神の定めた範囲内で性交渉を楽しめば良いと思う。避妊をしてもしなくても、神が定めたタイミングでしか、子どもは授からないのだ。
最後に、聖書で「夫」として素晴らしい姿を見せている、エルカナという人物を紹介したい。聖書を見てみよう。
エフライムの山地ラマタイム出身ツフ人の一人で、その名をエルカナという人がいた。(中略)エルカナには二人の妻がいた。一人の名はハンナといい、もうひとりの名はペニンナといった。ペニンナには子がいたが、ハンナには子がいなかった。(中略)そのようなある日、エルカナはいけにえを献げた。彼は、妻のペニンナ、そして彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えるようにしていたが、ハンナには特別の受ける分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。また、彼女に敵対するペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられたことで、彼女をひどく苛立たせ、その怒りをかき立てた。そのようなことが毎年行われ、ハンナが主の家に上っていくたびに、ペニンナは彼女の怒りをかき立てるのだった。こういうわけで、ハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ、なぜ泣いているのか。どうして食べないのか。どうして、あなたの心は苦しんでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか」
(サムエル記第一 1:1~8)
私はエルカナの姿に、やさしい夫の姿を見出す。当時、女性にとっては「子どもを産む」というのが存在価値であり、ステータスであった。しかし、エルカナは子どもを産めないハンナを軽んじず、むしろ優しく語りかけた。「あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか」。この言葉は、エルカナの心そのものであっただろう。裏を返せば、「私にとって、あなたは十人の息子以上の存在だ。私はあなたを愛している。それで良いではないか」という語りかけに、私には聞こえる。子どもを産むのが至上命題であった当時の価値観の中で、この言葉が言える夫は、そうはいなかったであろう。
結局、神はハンナの切実な願いを聞かれ、男の子を与える。その男の子が預言者サムエルとなるのであった。しかし、エルカナは、たとえハンナが子どもを産めないままであっても、ハンナを愛しただろう。
子どもが産まれても、産まれなくても、夫婦が愛し合って一緒にいる。これこそ、素晴らしいことではないだろうか。私は、そう思う。
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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