クリスチャンはよく「神のみこころ」とか「コーリング」という言葉によって自分の人生を決めようとします。それらは、絶対に待たなければいけないものなのでしょうか?
クリスチャン用語に「コーリング」というものがある。「コーリング」とは、英語の「Calling」から来ていて、直訳すれば「(神の)呼びかけ」という意味である。日本語で最も分かりやすい表現をすれば「神のお告げ」とでも言うのが適切かと思う。
クリスチャンは神の計画通りに生きたいと願う。それゆえ、「神の計画」(みこころ)を知りたいと願う。だから、適切な時に「神からの呼びかけ」があれば、それに従いたいというのが、クリスチャンの性なのだ。「神の計画」、いわゆる「みこころ」を知るための何らかのキッカケなどを「コーリング」と呼ぶのである。
この「呼びかけ」は、何についての呼びかけなのか。内容については様々な考え方がある。
<“コーリング”で示されるもの>
◆神から示される「将来の目標」
◆神から示される「仕事や役割」
◆神から示される「時期」
◆神から示される「路線変更」
・・・などなど
クリスチャンはよく、「将来やるべきこと」や「特殊な役割・ミッション」について神から示された、という時に「コーリングを受けた」などと説明する。「神に牧師になるよう示された」とか「神に宣教師としてアフリカに行くように示された」などというのは、よく聞く話だ。人によっては、牧師や宣教師になるときには「コーリング」が必ず必要だとする意見もある(※私はそうは思わないが。後述)。また、今やっている仕事や事業、ミニストリーなどの「変化の時期」についても「コーリングがあった」などと説明する人もいる。
一番気になるのは、この「コーリング」は一体どういう形で分かるのか、という問題だろう。摩訶不思議だが、「耳で声が聞こえた」という人もいる。またある人は「夢で幻を見た」という人もいる。そういう場合は、たいていただの夢ではなく、やけにハッキリしていたり、同じ夢を何度も連続で見たり、異なる場所にいる複数の人が同時に全く同じ夢を見たりする。他にも、聖書の言葉からピンと来たとか、周りの人にアドバイスを受けた体験を、「神からのコーリング」として捉えるケースもある。様々な形で、クリスチャンたちは「神のコーリング」を受け取るのである。これについては、次回の記事で詳しく書きたいと思う。
クリスチャンたちは、時にこの「コーリング」を「待ちすぎる」傾向がある。「まだ神のコーリングを受け取っていないから」と言って、人生において足踏みしてしまっているケースをよく見る。ここでひとつの疑問が出てくる。クリスチャンならば、必ず神のコーリングがあるのだろうか? それはどんな形で聞こえるのだろうか。そして、必ずそのコーリング通りに生きなければいけないのだろうか。ひとつひとつ見ていこう。
まず端的に私の意見を述べたい。「誰しもが神の声を、耳で聞けるわけではない」というのが、私の意見である。誤解を恐れずに言えば、神の声が耳(の鼓膜の振動)で聞こえたとか、幻が見えたとか、奇跡を体験するなんていうのは、むちゃくちゃ激レアさんなケースだと思う。ほとんどの場合は、神の声は耳では聞こえないし、幻なんて見えないし、死んだ人が生き返るレベルの奇跡を目の前で体験することなどない。そんな超奇跡的な「コーリング」を期待していたら、もしかすると間違いかもしれない。
誰もが神からの劇的なコーリングの体験をする・・・そんな勘違いは、皮肉にも聖書の様々なエピソードが原因だろう。聖書の登場人物は、あらゆる形で劇的な「コーリング」を体験する。聖書の中から、いくつか例を挙げてみよう。
◆アブラハム(神の声を聞く)
→神から「生まれ故郷を出て、私が示す土地へ行け」というお告げを受ける
(創世記12章参照)
◆モーセ(“燃える柴”の不思議な奇跡を体験、神の声を聞く)
→燃えているのに燃え尽きない不思議な柴を見つけ、それに近づいたところ、神の声がした。神の声で「わたしがあなたを遣わす」と約束された
(出エジプト記3章参照)
◆サムエル(神の声を聞く)
→「サムエル、サムエル」という神の声を3度聞いた。預言者エリの助言により、「ここにおります」と答えると、神の声でお告げを受けた
(サムエル記第一3章参照)
◆ギデオン(天使のお告げを受け、神の奇跡を体験する)
→神の御使い(天使)が突然現れて、「神があなたを遣わす」というお告げを受ける。その証拠として、ギデオンが献げた肉とパンは一瞬で燃え尽きてしまった。しかし、まだ信じられないギデオンは「羊の毛皮」の奇跡を証拠として要求する。そして神はギデオンが望んだ通りの奇跡を二度に渡って見せたのであった
(士師記6章参照)
◆ダニエル(幻を見る、聖書の記述から悟る)
→ダニエルはこの世のものとは思えない幻を見た。それは終末についてのお告げだと考えられている。また、ダニエルは預言書の記述から、イスラエルが捕囚状態から解放される未来を悟った
(ダニエル書参照)
◆パウロ<サウロ>(イエスの姿を見る、声を聞く、奇跡を体験する)
→イエスの信者を迫害していたパウロは、道中に突然、光に包まれたイエスの姿を見る。イエスは死んだはずであった。そして「サウロ(パウロの元の名前)、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声を聞く。その後、一時的に目が見えなくなるが、「目からウロコが落ちる」体験をして、目が見えるようになるという奇跡を体験する。神はパウロを「わたしの選びの器」であり「どれほど苦しまなければならないか示すつもりだ」と宣言する
(使徒の働き9章)
・・・いかがだろうか。聖書の登場人物たちは、実に様々な形で「神のお告げ」、「コーリング」を受け取っている。詳細は省くが、サムエルやサムソン、イエスのように、本人ではなく、親にコーリングが与えられるケースもある。
このような記述を見ると、ついつい自分も神の声が聞こえたり、幻が見えたり、ありえない奇跡を体験するのではないか・・・と期待してしまう。ある意味で、自然な成り行きだろう。聖書の記述が、クリスチャンたちに「自分にも奇跡的なコーリングがあるのでは・・・」と勘違いさせてしまっているのである。
しかし、そういった、あえて言えば「過剰なコーリング待ちの状態」が、クリスチャンの中で横行していないだろうか。起こるはずのない「コーリング」を待ち続ける行為は、裏を返せば「何もせず口をあけて待っている」だけの行為に等しい。「コーリング」にこだわりすぎる姿勢が、クリスチャンの人生選択を、がんじがらめにしてしまっているのである。
大胆に私個人の意見を言えば、聖書にあるような、とてつもない奇跡を伴うコーリングは、特別な使命を持った人々だけに与えられるものではないかと思う。アブラハムはイスラエルの民全体の父祖である。モーセは民全体のリーダーであり、神と顔と顔を合わせて語り合うことのできた唯一の預言者である。サムエルは親の代から神に預言され、聖別された預言者である。ギデオンは他民族から迫害されていたイスラエルの民を救い出した勇士だった。ダニエルはバビロンの高官であり、イスラエルの民の中で政治的に最も力を持つ人物であった。パウロは神によって特別に選ばれた使徒だった。
そんな特別な役割があった彼らと、現代の私たち1人ひとりを比較した時、果たして全く同じだと言えるだろうか。私たちはイスラエルの民のリーダーだろうか。預言者だろうか。勇士だろうか。国の高官だろうか。そして、使徒時代の迫害を生き抜き、新約聖書に多くの手紙を残すような「使徒」だろうか。もしかすると、当てはまる人はいるかもしれない。しかし、私たちの多くはそれらに当てはまらない。いわば「モブキャラ」なのだ!
もしかすると、そのような聖書のリーダーたちと、現代に生きる私たちが、同じような「コーリング」を受けると「期待しすぎる」のは、間違いかもしれない。誤解なきようお願いしたいが、私は個人的に聖書にあるような「神の声」が聞きたいと願っている。幻が見えたり、夢でお告げを受けたり、奇跡を体験したりできたらいいなと期待している。むしろ、積極的にそれらを認めるし、そういう体験談を聞いたら素直にすごいと思う。それに、現代でもそのような奇跡は起きると信じている。
ただ、同時に「過剰な期待」は、クリスチャンの人生選択をゆがめ、狭め、不自由にするのではないかと危惧している。聖書にあるようなとんでもない奇跡を待つあまり、人生の選択が滞っていないだろうか。次のステップに踏み出す勇気を、くじいてはいないだろうか。聖書にあるような大きな奇跡を伴う「コーリング」は、それと同じように大きな使命を背負う人に示されるべきものなのかもしれない。私は奇跡的なコーリングを否定しない。しかし、それにこだわりすぎるのは危険だと思っている。
クリスチャン界で流布している嘘の中に、「牧師や宣教師には、特別なコーリングを受けないとなってはいけない」というものがある。完全な間違いである。私は、このごまかしを本気で信じ、「自分にそのコーリングがいつあるのか」、今か今かと待っていた時期もあった。しかし、成長するにつれ、こんな疑問が浮かんできたのである。「あれ、『牧師や宣教師になるために、特別なコーリングが絶対に必要だ』って、聖書のどこに書いてあるんだろう・・・?」そして今ハッキリ言えるが、そんな記述はどこにもなかったのだ。ただの欺瞞だったのである。
さて、聖書はどのように書いているのだろうか。少しだけ見てみよう。まず、いわゆる「牧師」についての唯一の記述を見てみよう。
しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。
(中略)
こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
(中略)
キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。
(エペソ人への手紙 4章7~16節)
ここから分かるのは、以下である。
1:信者は一人ひとり、それぞれの賜物(わかりやすく言えば、才能)が与えられている
2:キリストご自身が、その賜物に従い、それぞれ別の役割に人を任命している
3:それは信者たちを整え、教会(キリストのからだ)をひとつとするためである
4:キリストにあって一人ひとりが役割を全うすることにより、教会の共同体は成長する
これだけを見ると、「それぞれの役割に任命されている」のだから、特別な「コーリング」が必要にも感じるだろう。しかし、「どんな役割がどうやって分かるのか」については書いていない。では、他の聖書の部分を見てみよう。
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
(エペソ人への手紙 1章4~5節)
いかがだろうか。神の特別なコーリングとは、実は牧師や宣教師になるためのものではなく、「イエス・キリストによって神の子となる」ためのものなのである。信者は、既に「イエスを信じること」に「呼ばれている」のである。これこそが、神のコーリングである。牧師とか宣教師になるとか以前に、イエスを信じるということそのものが、神からの特別なコーリングなのだ。
コーリングを受け、神の子となり、イエスの弟子となった者たちは、イエスによってこのように命じられた。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」
(マタイの福音書 28章18~20節)
あらゆる国の人々を弟子とせよ。命じたすべてのことを守るよう教えよ。これがイエスの命令であった。これは、当時の弟子たちだけに語られた言葉だろうか。私は、イエスの弟子の弟子の弟子の弟子の・・・弟子である私たちにも、同じように語られた言葉だと信じたい。
まとめると、私の意見では神の特別なコーリングは必ずある。しかし、それは「聖霊を受け、イエスを信じ、神の子となる」ための特別なコーリングだと思う。牧師や宣教師になるといった個別具体的なものではない。強いて言うならば、クリスチャンはみな「王である祭司」として選ばれている。
しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
(ペテロの手紙第一 2章9節)
教会の共同体の中では、それぞれに見合った役割がある。それははじめからイエス自身が、私たちに定めている役割である。ある人は牧者または教育者としての役割がある。ある人は預言者として。ある人は伝道者として。ある人は使徒として。それぞれが、「違う役割」であって、優劣はない。ただ、役割が違うのである。どの役割を担うかについて、特別なコーリングが必要だと聖書は書いていない。ただ、「キリストの賜物の量りにしたがって」とある。
私は、それぞれが持っている「志」や「情熱」、「的確な才能」や「経験」がコーリングの一部に値するのではないかと思っている。それが恵みによって与えられた「キリストの賜物」であると思う。聖書が「神の特別なコーリングがないと牧師になってはいけない」などと言っていない以上、「必ずコーリングが必要だ」と断言するのは根拠に乏しい。牧師になりたいと思ったらそのために努力すればいいし、宣教師になりたいと思ったら、そのために動けば良いと思う。誰しもが、かならず明確に神の声を耳の鼓膜で聞こえるわけではないのだから。
ここまで強調した上で、私の意見を述べよう。どんな人でも、神のコーリングは受け取れる。それが私の意見である。矛盾するように感じるかもしれない。しかし、これが私の本音である。ただ、それは聖書にあるような「神の声が聞こえる」といった形ではないかもしれない。「もっと小さな何か」によって示される可能性もある。
クリスチャンは、イエスを信じた時点で、「神の子」として呼ばれている。既に特別なコーリングを受け取っているのである。クリスチャンは、誰しもが王である「祭司」として、イエスのことを伝える使命がある。そして、イエスの命令を教える役目がある。これが「コーリング」である。
牧師や宣教師などというのは、その大きな使命の中の「小さなひとつの役割」に過ぎない。それについて、必ずしも明確なコーリングが必要だとは、聖書は書いていない。しかし、それぞれに役割があり、適切な才能が与えられ、それぞれの役割を果たすことによって、教会の共同体はキリストのうちにひとつとなり、成長していくとは書いてある。
もし、あなたが神に祈り、「これをやりたい!」という情熱が湧いてきたら、その情熱こそが神からの「コーリング」かもしれない。あなたが持っている才能がその役割に適切ならば、それこそが「コーリング」の可能性がある。あなたが読んだ聖書の言葉から、強い思いが湧き上がってきたらならば、それこそが「コーリング」と言えるかもしれない。周りの人たちの助言が、神からの「コーリング」かもしれない。
しかし、ただのカンチガイの可能性もある。そのため、「コーリングかも?」と思ったら、少し立ち止まって吟味することをオススメしたい。では、どうやったら「コーリング」が本物かどうか、ハッキリ分かるようになるのだろうか。その「見分け方」については、次回の記事で5つのポイントにまとめたいと思う。今回の記事は、ここで閉じる。
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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