新刊紹介『ユダヤ人も異邦人もなく』(山口希生師ゲスト投稿)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

パウロ研究、特にいわゆる「ニュー・パースペクティブ」に関心のある方々にとって注目すべき新著が刊行されます。このブログでも何度か寄稿してくださった山口希生先生による、『ユダヤ人も異邦人もなく』(新教出版社)です。今回はこの本の刊行に際して、山口先生ご自身がその内容を紹介してくださいます。ぜひお読みください。

(山口先生の過去のゲスト投稿記事 1 2)

『ユダヤ人も異邦人もなく―パウロ研究の新潮流』の公刊に寄せて

山口 希生

今年の4月に公刊される拙著『ユダヤ人も異邦人もなく-パウロ研究の新潮流』(新教出版社)について、山崎ランサム和彦先生のご厚意で、先生のブログに紹介文を掲載させていただくことに心から感謝します。

本書は、日本でも長らく注目を集めてきた「ニュー・パースペクティブ」と呼ばれるパウロ研究の新潮流の歴史について、包括的に記述することを目的としています。この神学的潮流がどのような背景から生まれ、発展してきたのかを、19世紀の古典的学術書から21世紀の直近の研究まで、10名の学者の業績を紹介しながらたどっていこうというものです。内容は学術書でありながら、一般の信徒の方にも分かりやすいようにと頑張って工夫して書きました。聖書に親しんでおられる方ならば、特別な知識がなくても読める本になっていると思います。

私自身は、ニュー・パースペクティブの中心人物の一人であるN. T. ライト氏に博士論文の指導を受けましたので、この新潮流については、いわば内側から知ることのできる立場にありました。私は博士論文を完成させて2015年に帰国しましたが、ちょうどそのころ日本でもライトやニュー・パースペクティブをめぐっての議論が盛んになっていました。特に、岩上敬人先生が翻訳したライトの『使徒パウロは何を語ったのか』(いのちのことば社)が2017年に公刊されてから、ニュー・パースペクティブは使徒パウロの「信仰義認論」について何か新しいことを論じているらしいという認識が広まり、好奇心と同時に警戒感も高まってきたように思います。信仰義認論はプロテスタント教会の中核教義であり、宗教改革者のマルティン・ルターが「教会が立つか、倒れるかの教義」と呼んだほどのものですから、それは当然のことでしょう。ただ、前掲の『使徒パウロは...』を読んでも、ライトが信仰義認についてどう考えているのか、どのような「新しい」視点を提示しているのか、いま一つ分かりづらいところがありました。同書は学界でのパウロ研究における様々な問題についての議論を、コンパクトに凝縮して一冊にまとめており、信仰義認をめぐる議論だけを特別に取り上げているわけではないからです。また、ライトの義認論に反論する立場からの本として、ジョン・パイパー氏による『義認の未来』(いのちのことば社)の邦訳が2020年に公刊されましたが、同書はニュー・パースペクティブそのものを論じた書ではなく、義認論における「義の転嫁」という教義上の問題に焦点を絞った本ですので、この教義上の問題にあまり親しみのない方には少し難しい内容だったかもしれません。

ニュー・パースペクティブについての関心が高まりながらも、この新潮流について分かりやすく包括的に説明した日本の研究者による書が未だに公刊されていない、という問題意識が私の中にはありました。いわば本場のイギリスで七年間この新潮流を学んできた者として、何かしら日本での議論の深まりのために貢献ができないだろうかという思いから本書を執筆しました。本書の中ではパウロ神学についての様々な議論をカバーしていますが、特に力を注いだ点の一つは、ニュー・パースペクティブによって義認論の理解にどのような新しい光が当てられるのか、そのことを読者の方々に理解していただきたいということでした。詳しくはぜひ本書を手に取って読んでいただきたいのですが、今回のブログでは義認論をめぐる議論について、ポイントを絞ってご紹介したいと思います。

本書で紹介した10名の研究者たちは、義認論について様々な見解を持っていますが、大別すると2グループに分類できます。最初のグループの学者たちは、パウロの救済論の中心にあるのは信仰義認ではなく、「キリストとの合一(Union with Christ)」だ、と論じます。代表的な論者はアルベルト・シュヴァイツァーです。もう一つのグループは、信仰義認がパウロの神学の中心にあることは認めつつ、伝統的な見方とは異なる視点から義認論を捉え直そうとしています。具体的には、義認論を「行い」対「信仰」という角度からではなく、「救われるためにはユダヤ人にならなければならないのか、異邦人のままでよいのか」という民族主義の観点から捉え直そうというものです。本書のタイトル、『ユダヤ人も異邦人もなく』は、そのようなニュー・パースペクティブの中心的な主張を意識したものです。 

まずは最初の見解、すなわちパウロ神学の中心にあるのは「キリストとの合一」である、という見方について考えてみましょう。宗教改革者カルヴァンは、義認は「キリストとの合一」によって達成されると述べているので、それと義認論とは何が違うのか、という疑問が浮かぶでしょうが、伝統的なプロテスタントの義認論ではキリストが私たちの罪のために死なれた、ということを信じるだけで、いわば「受け身」の形で私たちが義とされる、救われるということが強調されてきました。それに対し、キリストとの合一という観点では、私たちがキリストと一つになる、具体的にはキリストの歩んだ道を私たちも歩む、キリストの生き方に参与していくという、より積極的・能動的な側面が強調されます。受け身の姿勢と能動的な姿勢、「他力」と「自力」というコントラストが浮かび上がります。とはいえ、信仰義認についても、必ずしも「受け身」ばかりを強調する必要はないはずです。

例えば、あなたがスポーツ選手で、勝利を目指して練習に励んでいるという状況を想像してみてください。あなたのチームに新しい指導者、コーチがやって来たとします。彼はこれまでのやり方を大胆に変えて、新しい練習方法、新しい戦術を導入します。ここであなたは、この新しいコーチを「信じるかどうか」という問いを突き付けられます。では、あなたがこのコーチのことを本当に信じているかどうか、どのようにして知ることができるでしょうか。「このコーチは素晴らしい実績を持っている」とか、「このコーチの指導法は優れている」というような事柄を信じることは大切ですが、しかしこのコーチを心から信じているなら、彼から与えられる練習メニューをしっかりこなし、試合においてもコーチの戦術に従ってプレーするということが必要です。そのような実践・行動なしには、「このコーチを信じている」ということにはならないからです。キリストに対する信仰も同じことが言えるでしょう。キリストについてのいくつかの事柄、「イエスは神の子である」や、「イエスは私たちのために死んだ」という教理を知識として同意するだけでは、本当にイエスを信じたことにはならないはずです。イエスの教えられたことを日々の生活で実践し、自分もイエスが歩まれたように生きようとする、そのような能動的な姿勢なしには本当にイエスを信じているとは言えません。「信じる」とは知識を受け入れるにとどまらず、その人を全面的に信頼し、その信頼を行動で表すことが含まれるからです。こう考えると、「信仰義認」と「キリストとの合一」をあれかこれか、というように対立的に考える必要はないはずです。このテーマについては、本書の8章のリチャード・ヘイズについての論考をぜひお読みください。

次に、もう一つのグループについてですが、このグループの研究者たちは信仰義認がパウロの救済論の中心にあることを認めます。しかし、パウロが「信仰」と対比している「行い」を、一般的な意味での善行であるとは考えません。パウロ自身も、クリスチャンでありながら良い実を結ばない歩みを続ける人は神の国に入れないと繰り返し警告していますので(ガラテヤ5:19-21; 第一コリント6:9-10)、パウロが善行の必要性を否定したとは到底考えられません。むしろ、モーセ律法の中核にある「十戒」を引用しながらその実践の必要性を訴えていますし(ローマ13:6-10)、さらには義認についても、義とされるのはモーセ律法を聞く者ではなく、行う者だとはっきり述べています(ローマ2:13)。ですから、パウロが「行いではなく、信仰で義とされる」と語る時に、パウロはどのような意味で「信仰」と「行い」を対比させているのかを注意深く考える必要があります。ニュー・パースペクティブを提唱する研究者たちは、パウロが問題にしたのは「十戒」に代表されるような一般的な善行を促すモーセ律法ではなく、むしろユダヤ人信徒と異邦人信徒との間に壁を作ってしまうような一連のモーセ律法だと指摘しています。そのような律法の代表例が「食事規定」であり、パウロが初めて信仰義認の議論を展開したガラテヤ書の2章において、パウロが問題にしたのはまさにその食事規定でした(ガラテヤ2:11-16)。そこで「信仰」と対比されていた「行い」は普遍的な意味での善い行いではなく、非常に特殊な行い、つまりモーセ律法に規定されている食事規定を守るという「行い」でした。

この問題を私たちの日常に当てはめて考えてみましょう。あなたがクリスチャンになる際に、「あなたの父と母を敬え」と教えられても何の違和感も不自由もないでしょうが、しかし「レビ記の食事規定」を守りなさい、と言われたらどうでしょうか?これから先、かつ丼もトンカツも、あるいは(全部の種類ではなくても)お寿司も食べられない、となると、クリスチャンになることを一瞬躊躇してしまうかもしれません。一世紀に生きていた異邦人信徒は、ペテロのような有名な先生とお近づきになるためには、ユダヤの食事規定を守らなければならない、ユダヤ人のように生活しなければならない、というプレッシャーを受けていました。彼らが大好きな料理のいくつかを断念し、ユダヤ教に則った調理法を学ばなければならないのです。そのような「行い」をしなければ義とされない、つまりペテロと対等の立場の正式な神の民のメンバーにはなれない、このように主張する人たちに対してパウロは「義認論」で応酬します。この点はニュー・パースペクティブのまさに中核的問題ですので、詳しくはぜひ本書を手に取って、これまでの研究者たちがどのような問題意識をもってこの問題に取り組んできたのかを振り返っていただきたいと思います。

以上、ごく簡単にではありますが本書の内容の一部を紹介させていただきました。むろん、ニュー・パースペクティブとは単なる「義認論」についての議論ではありません。より広い角度から、ユダヤ人であるパウロの神学について様々な角度からの検証がなされます。その中には宗教改革の一大スローガンである「恵みのみ」も含まれます。そういった議論の一つ一つはとても大切なものです。本書を読まれた方がそうしたテーマについてより深く考えてくださるきっかけを本書が提供できれば、望外の喜びです。

The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

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