生きがい”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、
"生きがい"ということを考えてみました。心の中にぽっかりと穴があいているような虚しさ・・・・、これは誰もが感じたことのあるものではないでしょうか。どんなに豊かな生活をしていても、あるいはどれだけ能力があって、自分のしたい事を出来ていても、それだけでは満足できない・・・、それが人間というものではないでしょうか。いかなる動物も
"生きがい"を求めて悩んだりしません。人間だけが、生きがいを求め、生きる目的や意味を考えるのです。なぜでしょうか? パスカルは『人間の心の中には神によってでしか埋められない真空状態がある』と言いましたが、神との愛の関係を持つように造られた人間は、神との愛の関係を持つまではその心が満たされることがないからです。今から3000年ほど前、栄華を極めたイスラエル王国のソロモン王は、すべてのものを手に入れた後にこう言いました。
そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。(伝道の書2:11)これは、富と権力を欲しいままにし、知恵ある者としての名声を博したソロモンの言葉です。人類史上、最大の富と権力と最高の知恵が与えられた王様が自分の実体験から、人が求めているこの世のものは結局は何一つ益となるものはないと言っているのです。しかし、それでも人は必要以上に富と権力と名声を求め、人を軽んじる自己中心の心が競争社会を生み出し、人の心から
"生きがい"を奪い取っているようにも感じられます。では、
"生きがい"とは一体どこにあるのでしょうか? その一つのヒントが私たちの日常生活の中にあります。私たちは誰かの役に立っていると感じた時に何とも言えない満足を覚えるものです。たとえそのために自分の何かを犠牲にしなければならなかったとしても、誰かの役に立ったことで私たちの心は喜ぶのです。つまり私たちの心の中には、自分が損をしても他の人が得をすることが嬉しいという心根があり、そこに私たちはある種の
"生きがい"を見出すのです。また反対に、自分が得することばかりを追い求めていくならば、だんだん人が自分から去って行き、多くのものを失う結果になります。聖書にこんな言葉があります。
施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。(箴言11:24)与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。(ルカ:38)見返りを求めないで与え、他者のために生きる時、かえって自分が豊かに生きる力が与えられ、私たちの心は満たされるのです。ところが、いくら見返りを求めないとはいえ、与えても与えても、なお裏切られることがあるものです。そんな時、がっかりして、他者のために生きることを止めてしまうと、いよいよ心は貧しくなってしまいます。そこで私たちが知らなければならないことは、私たちの心を豊かにする「他者のために生きる」という人生において、本当の「他者」とは誰なのかということです。それは決して私たちを裏切ることのない『神様』であり、この方ために生きる時、私たちの心は本当の
”生きがい”を覚え、また生きる力が与えられるのです。
だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。(第一コリント10:31) 今日の一言: 神様のため、人のために生きよう。平安鶴田健次
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